海の手記

報告と記録

すっかり日が落ちるのも早くなって、サンダルで外出するのができなくなった。今年はカメムシが大量発生しているらしい。

カメムシは暖冬の兆しだという。さむいのが苦手な私としてはこれは喜ばしく、ともすればカメムシを見直しかけたが、べつにカメムシがいようといまいと、冬はさむかったり暖かかったりするのだから、やはり気持ちがわるいのに変わりはなかった。

風景が彩度を失っていく季節だ。あのひとは元気にしているだろうか。風邪など引いていないだろうか。白い、あまりに白いあの土地を思い出す。それと、人間など一笑に付すような、あの偉大な山々。

大切なものに順位をつけるのはきっとおろかなことだからやめた。恋人の歩くのが速いとき、そういえばあのひともすたすたとひとり歩いていってしまうひとだったと思う。そういうものがこれから積み重なっていく。増えていく。

彼女は祈るように次の話をする。そのいじらしさに負けて、私もきっとそうしようねと答えてやる。きわめて健康的な彼女を、私の指が汚していく。それだけ。

しあわせのなりかたを忘れてしまったらしい。およそしあわせである、あるいはそのはずだという客観は、犬くらいは食ってくれるだろうか。

意味なんてとうにない。しぬには遅すぎるし、生きようとするにはもう私は若くない。私がしにたがりであることを、彼女は知らない。聡い彼女はもっとあなたのことを教えてと言うけれど、だれだって醜いものをみたくはないはずだ。まして愛した人間の本性なぞ、知らずに済むなら知らないほうがいい。

北国に越してきてはじめての冬になる。きっと経験したことのない雪になると、同僚におどされて、それはあの白さと似ているかなと思った。信号機は縦ではないけれど。

どうせ朝は来るんでしょう。季節性の感傷が、ぜんぶをうそにしてしまう前に。

頑張っていられるのにも終わりが来る。
わたしという商品の期限はもう尽きかけていて、それはわたしの心意気だけではどうしようもない。
わたしは傍目には夢見がちな、みっともない人間に映るんだろう。そういうことを、わたしは気にしない性質だけれど、でも、わたしをわたしから解放してくれる人たちは、当たり前だけどわたしじゃない。つまるところ、わたしに向けられた視線は、わたしがいかに気にしていなかろうと、関係がなくて。
来年のことを思う。もうわたしは若くない。才能もないわたしが、今年のわたしより結果を残せるなんてこと、あるのだろうか? わたしはわたしの二十代を無駄にしているのじゃないだろうか?
ふとそんなことを考え出すと、死にたくてしかたがなくなる。ゆるやかにすべてをなくしていく感覚。
大事なものはもうわたしの手からするりとこぼれてしまった。もうわたしを動かしているのはこの強迫にも似た自罰と羨望だけなのだ。これを失って、まだ生きていられる気がしない。
頑張るだけでいいならいくらでも頑張るのに。
頑張ることを許してほしい。誰でもいいから、言葉で。
うっかり死んでしまう前に。
カート・コバーンは27歳で自殺したね。

歌が上手と言われた。
あなたは周りが思うほど冷たくなんかなくて、よほど血の通ったひとだと言ってくれた。
そんなことはまったくないのに。
わたしがわたしを許せなければなんの意味もないのに。

ただ、みんなしあわせになってほしいと思った。
わたし以外がみんなしあわせになったら、わたしは特別になれるから。

いちばん付き合いの長い友人だと言ってくれた人がいた。
愛しているからどうか死なないでほしいと言ってくれた家族がいた。

それでも渇いている。
味のしない料理で腹を満たしているような感覚。

それはもう愛されていないのとどう違う?

なりたいわたしにもなれないままで、わたしは生きていかなければならない?

そう、生きていかなければならない。
強迫でもいいからわたしは生にしがみついていなければ。

友人の結婚式が八月にあるらしい。
八月まで生きる口実ができてよかったと思った。

わたしが死なないように世話をするのに、わたしはすこし疲れつつある。