海の手記

報告と記録

2月13日
きっとこういうことが多くなる。
その時いらなくなるのはきっと私のほうだ。

身の内に怪物を飼っているような気がする。
どうすれば飼い慣らせるのか、あるいは、どうすれば殺せるのか。今はただ、美しく生きる人間が羨ましい。こんなおぞましいものを腹の内に隠しているような人間から生まれでた音楽が、言葉が、物語が美しいわけはなく、だとすれば僕は生きていても仕方がないのではないか。
美しい貴女を汚すだけならば、(いかに貴女がそれをよしとしようとも、だ)僕はなんとしてもこの怪物を殺さなければならないと思うのだ。
宗教はだめだった。ならばもう自罰より他にないのではないだろうか。罰されているうちは、なんとか呼吸が許されている錯覚に陥ることができる。
もう何もわからない。
自分が間違っているということだけは、わかるけれど。

はやくこのおぞましい怪物を、私はどうにかしなければ。

教会

罰されていたい。
そうでないと、くるしい。
罰されている間は、空気がおいしい。
誰も罰してはくれないとき、
ぼくはぼくを罰してもかまいませんか。
馬鹿が治るまで。
性欲が消えるまで。
ぼくがぼくでなくなるまで。

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京都という街について

この街に来てもう三年と半年が過ぎた。
入居当時空き地だったお隣さんにはよくわからんマンションが建ったし、一乗寺にはラーメン二郎ができた。その点ぼくはと言えば、何も進退なく、相変わらず不健康かつ怠惰な生活を続けている。本だけはそれなりに増えた。でもそれだってこの街に来る以前からの習慣でしかないのだから、やっぱりぼく自身は何も変わりないのだとおもう。この街は時間の流れが異常におそくて、実際の時間のながれに置いていかれてしまいがちだ。この街に来れば何かがどうにかなるような気がしていたけれど、それは健気な幻想に過ぎなかった。

それはそうと左京区は偏差値が高い感じがするのはどうしてだろう。哲学の道があるからなのか、京大があるからなのか、なんとなく文化のにおいが強い。年度末には引っ越しを予定しているので、すこし気にしておきたい。東山とか、あのへん。
うちの大学の人間は鴨川を隔てて向こう側に行かないなんていう言説があるけれど(これがくだらない選民思想か、あるいはしょうもない自己卑下に由来するのかは死ぬほどどうでもいい)、ぼくは結構行ったとおもう。どうでもいいけど鴨川に入水自殺できるほどの水深がなくて本当によかった。京都に来る人間なんていうのは、ぼくから言わせればどこか精神を病んでいるし、ひとをぽんと飛び込ませるような引力が、深夜のあの川にはある。

三条河原町のあたりは、サブカル野郎/女とサラリーマン、DQN大学生やバンドマン、外国人観光客がごっちゃになってておもしろい。烏丸線に近づくほどサブカルチャー度が高いとおもう。サブカル区画ではあんまりバンドマンは見ない。ふしぎ。バンドマンが好みそうな古着屋とかあるのに。
鴨川は金もかからんし、雰囲気もわるくないから、等間隔に並ぶ気持ちもわかる。別に見せつけてるわけでもないのに、変に見下している人間にはすこし辟易とするけれど、実際にみると本当に等間隔でわらう。わらうくらいは許してほしい。

大学卒業がすこしだけ迫ってきて、なんとなく三年とすこし暮らした街のことを書きたくなった。でもいざ書き出すと書ききれないことがあまりに多く、もしかしたらまた書くかもしれない。いや、書かないかもしれないけど。書くとすれば、今度はもうすこし自分語りしてみようともおもっている。

ぼくはいつまでこの街にいられるのだろう。何の進退も得られなかったけれど、それなりには気に入っていて、ずっといられたらいいな。

今日は外に出るつもりだった。
なんだかもうどうしようもないところにまで来てしまった。身体はうごかない。頭がわるい。大学入学時に思い描いた私は、少なくとも今の私ではない。
せっかく上手くやれていたのに。いや、上手くやれていたから、分不相応にも頭がわるいことを失念した。はずかしくてもうとてもではないが生きていかれない。シャワーを浴びながら眉剃りの刃を試しに腕にあててみたけれど、やはり衝動に身を任せられる人間ではないらしく、痕になったらいやだなとか、心配をかけたくないななどと考えたりした。きっと薬が手元にあっても同じだろう。それとは別に刃のあたっている様をみて寒気がした。色々な面で不可能だ。
私が消えても私にまつわる私以外のものは消えない。この記事も消えない。だから私が消えても意味がないのだ。素敵なことで、残酷なことだ。
風邪が長引いている。バイトに受かったとの報があった。数日前の私は、なぜこんなものに応募したのだろう。まあ、無理やりにでも外に出れば、何か好転するかもしれない。……うそだ。なにも変わりはしない。またしにたくなって行けませんなんてことのないようにしたい。
色々やりたいことがあった。パソコンの知識をつけようと思い立ったのをおぼえている。今日はそのための入門書を見に行くつもりだった。勉強の予定をたてていて、その参考書も。一体なんのための勉強だっただろうか。思い出せるけれど、熱量を思い出せない。どうでもいいと考えるのは、あまりよくない。神経質すぎる私だから、多少はそうしたほうがよいのだけれど、どうでもいいと考えて物事がよくなった試しがない。自棄と大雑把はちがう。
ともあれ生活はできているのが救いかもしれない。食事を摂れたのは昨日の作り置きがあったのも大きいが。風呂にも入れたし、排泄もできている。明日は試験の合否がわかる日だったような気がする。バイトのメールも届くらしい。よくねむれますように。そして、外に出られますように。

審判

特別にはなれなかった。
ぼくはえらばれなかった。
なににも、なれなかった。
おそらく今なら死ねるだろう。なんとなくそう思う。余生がすべて消化試合へと移り、ぼくはなににもなれなかった自分を許容できやしない。正直に言ってなんの希望も消え失せてしまった。ぼくが死んだらたくさんのひとがかなしむので、死なないことにしているだけだ。あるいは、ぼくには何の価値もないけれど、あえて死にたいとは思わないだけだ。
一日ベッドに横たわっていた。食事も摂らなかった。耳鳴りはひどく、吐き気を何度も催した。自律神経に異常をきたしたのか、なみだが勝手に出たりしていた。ここで薬を用量を無視して服用したり、衝動に委せて自傷したりすれば役満なのだけれど、そんなことをしても何にもならないことをぼくは知っているし、それらの行為をひどく嫌悪しているためしなかった。最早何に対する欲求も関心もわかなくなっている。死なないと決めたなら、ぼくはまた生活を編んでいかなければならないのに、すべてがどうでもよく、無気力に屈した身体は言うことを聞かない。明後日には大事な(最早大事であったかどうかも思い出せない)試験を控えているというのに。こんなのはただの甘えで、なりたいものになれなかった人間なんてごまんといることくらいわかっている。人生は妥協の連続でできている。いくらごねたところで、結果が覆ることもない。だから前を向くべきなのだけど、消化試合にぼくは価値を見出だせない。周囲も、はじめは慰めてくれるだろう。「がんばったのだから仕方ない」「まためざせばいい」でもそうじゃない。今じゃなければ意味がなかった。でもこれはわがままだ。甘えだ。ああ、もう、無理かもしれない。無理無理無理無理無理無理無理無理もうたすけてくださいゆるして、ねえ、
気が触れたら、おしまい。

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