海の手記

報告と記録

そこには

今日も1日生きながらえました。
ぼくは自分の声にコンプレックスがあって、風邪をひくたびに、治ったら声が変わっていればいいなあ、と思うくらいには自分の声が嫌いです。究極的には、声だけではなくて、才能というものに憧れているのだと思います。特別を欲するぼくにとり、それは喉から手が出るほどに欲しいもので、けれどそれらのほとんどは生来、先天的なもので、こんな思考は無駄以外の何物でもありません。自分のつくった音楽。出来上がった時にはそれは美しく輝いていて、自分を許してあげたくなるのですけれど、いざ実際聴いてみると、ぼくの頭の中で鳴っていた音楽はそこにはなくて、ぼくの大好きな曲たちに比べたら音楽ですらないような気がして。創造という行為が、自分がいかに二流で、二番煎じであるかを再確認するだけの作業にしか思えなくて、つらくなります。それでも、ぼくの中の特別への渇望は、つくることをやめさせてはくれないし、その強迫観念にも似た活力だけが、ぼくの意味をかろうじて繋いでいるように思います。才能はきっと暴力です。ぼくはまだなにかになれる余地を残しているのでしょうか。
基本的にぼくは人間というものを信じていないし、だから期待なんかしていないのがデフォルトです。約束は破られて当然だし、人は利己的に動くものです。それが人間だし、それを悪いことだとも思っていません。ただ、ぼくは誰かと関係するにあたって、そう考えることで他人の言動の影響の範囲外にいた、というだけのことです。月並みに言えば、常に最低を想定して動く、というだけのことだけれど、それは成功のために採った主義というわけではなくて、純粋に、人間というものは信用に値しないという達観に依るものでした。なにか自分が人間ではないような言い方になりましたが、事実、ぼくの頭の中には自分が人間ではないのではないかという疑問が常時巣食っています。ぼくだけではなくて、人間の性状や人格、哲学、思想の多様性はもはや個性という言葉では内包しきれないような気がずっとするのです。隣人は別種の生物なのではないか。そう考えるとぼくの人間不信も、ある程度の普遍性を獲得するような気もします。ならば誰が本当に人間らしいのか、もうぼくには判別は困難で、それでもぼくだけは違うのだろうなと思うばかりです。
こんな陰鬱なひとり語りに付き合ってくれてどうもありがとうございます。どうか君が幸せになれますように。