海の手記

報告と記録

駄文

ぼくはあまり情緒が平素より安定しているほうではないから、日によって気分が大いに異なる。気分が異なれば、食べたいものが異なるし、それは読書でも同じことだ。ぼくは平時数冊の本を並行して読んでいる。暗い本、明るい本、学術書、啓蒙書……。ぼくが見るたび読んでいる本を変えるから、周囲にはきっとたいした速読家か多読家とでも思われているかもしれないが、誤りであることを表明しておく。むしろ気分が異なれば一向に読み進められない本なんかもあったりして、また読み進める速度、分量も気分に依存するので結果として一冊読了するのにかかる時間は遅い上に、気分が乗らないまま積まれていく書籍は後を絶たない。そろそろ積読本を消化したいなあ、と気分屋の性格に鞭打って、山崩しに着手したはいいけれど、乗らないものは乗らないままで、まったく頁を繰る手は進まない。やはりこんな素晴らしい作品群を、気分が乗らないというだけで楽しめないままに無理矢理読了するような真似は作家や創作に携わっている多くの方々に対しあまりに無礼なのではないかと訳のわからない理論を打ち出しては、一体何を言ってるんだと我にかえりまた重い食指を動かす。
どうせ長くないであろう人生のうちに読みたい本は尽きないのに、書籍は次々出版される。そう考えたら永遠に生きていたいなんて血迷った考えが想起されるけれど、読書という行為は他者の価値観の摂取と同義だから、多分五万かそこら読み終えたあたりで自分が誰なのかわからなくなりそう。自分の罪状も忘却できるのならそれもありかなとか、いやそれなら死んでも同じことだろうとか、やはり栓のない思考ばかりが頭の中を占有している。
思考と言語、どちらが先行するのかぼくは哲学に詳しくないから知らない。けれどぼくは未だ自分の感情を言語化できなかったことはない。それだけぼくは言語の力を信じているし、これは誰にだって備わっている能力だとも思う。なのに何かを綴る時、本来の思考とテクストとして創出された言語に齟齬を感じるのは何故だろう。ぼくがいくら思考を十全に表したつもりでも、テクストという結果はまるでぼくの意にそぐわない。不思議でならない。思考を言語に変換するプロセスで原本(思考)が書き換わってしまったのだろうか。ぼくの知る優れた物書きたちは自分の作品は思考と一致しているのだろうか。もしかしたら十全に表現できているという自己評価はぼくの自信過剰なのかもしれない。この文章もまた、ぼくの思考の完全なトレースでありながら、どこかずれている。ぼくはそれが素直に気持ち悪い。