海の手記

報告と記録

クロードモネ

才能というのは有限であるという説は、才能ある芸術家や学者のほとんどが、十代や二十代でその全盛期を終えるという話からも過去歴史を遡っても存外的外れというわけではありません。一生を天才のまま終える天才など本当に一握りで、中には後世になってその才能を認められる、つまり才覚が時代に適合していない場合だって少なくないのです。仮に才能というものが数値的で、消費されるものであるならば、その絶対値こそが、天才の定義なのだと思います。ちいさな頃は誰もが天才だ、大人になるということは天才でなくなるということだ、という言葉は敬愛する小説家の受け売りではありますが、ならばぼくは才能を幼少期に使い込んでしまったのでしょう。ぼくに残るのは天才であったという経験のみです。そんな才能の絞りかすのようなものに依存して、今を生きています。
先日モネの絵画展に行きました。元々絵画に対する知見など持ち合わせてはいないので、当然ではあるのですけれど、ぼくにはそれらの作品をみても、何の意図も読み取れませんでした。構図、色彩感覚、どう切り取り、どの色を用いるのか、すべてがぼくの理解の外で、例えば同じものを見て、自分と同じものと認識するひとではなかったようにすら思えて、一体彼には何がみえていたのか、作品をみるたびにお前は凡才だ、凡庸だ、凡夫だと言われているような気がして、改めて才能というのは暴力だなと実感しました。特に晩年の絵画は、最早理解させようとすら、芸術の本質である伝達をも放棄したかのような作品群ばかりで、はやく美術館をでて煙草が吸いたかったです。凄絶の一言でした。有り体に言えば恐怖でした。あそこまで狂えたならば、どれだけよかっただろうかと思わずにはいられませんでした。ぼくは凡人のまま生きていきます。これより先何らかの才能が開花するなんてこともないでしょう。けれどぼくはぼくが天才ではなくなってしまったことを知っています。そんなぼくに何ができるのか、すこしずつでも考えていけたらなと思います。
それでは。