海の手記

報告と記録

改札

私は私という一個の人間が健全に消費されることを望む。私に漱石になることは難しい。宗教は私を救わないからだ。「許してくださる」という文言は、確かに惹句として効果的であるかもしれないけど、私は別に神に許していただきたいわけではないのだから。私は私に許されたい。私という一個が、健全に消費されているうちはそれができる。私という一個の残量が、あとどのくらいなのか。どうして皆それに思いを馳せずにいられるの?
「生きていく力に欠けていた」
「弱かった、弱かった」
「経済的な問題が……」
ああちがう、ちがうでしょう? ただ彼らは、彼女らは、すこしやさしすぎただけ、頭がよすぎただけ、遠くをみてしまっただけ、そのひとは、きっとあなたの前にいるときから、すでにそこにいなかった。論理で彼らを汚さないで。私は彼らを美しいとは絶対に言わないけれど、それだけはそう思う。「まだ若いのに……」なんて馬鹿らしい。そうでなくては価値などないのだ。
私は彼ら、彼女らとはちがう。人並みにやさしくあろうとは心がけているけれど、やさしすぎるということはないし、相対的に頭がよいとしてもそれが遠くに行けるほどよいというわけでは決してなく、行きたいとも思わない。また本棚がいるね。何度も、何度も、そんな話が永遠に続くことを私は望んでいる。
貴女はどう?


言葉の持つ表現力というのはひとが信じているほど大きくはないから、語弊が生じるかもしれないけれど(あるいはひとが言葉というツールを使いこなせていない。こちらのほうが貴女好みかもしれませんね)、これは詰問でも糾弾でもないよ。ましてこの文章から貴女は何か示唆的なものを感じとるかもしれないが、私はすこぶる快調です。こんなにしあわせなのに、どうか心配なさらないで。