海の手記

報告と記録

輪郭

文学ってなんだろう。
文学って人生に必要だろうか。よく「食べ物を食べなければ死んでしまうが文学はちがう。そこが文学のいいところだ」なんて言うけれど、例えば文学(ここでいう「文学」とは文字を媒介とするあらゆる事象、あるいは文字を媒介としない虚構性を有する事象をさす)にまったく触れずに養成された人間が果たして人間性を持ちうるかどうか(この問いにはまず「人間性」とは何かについて規定する必要がある)。原初、漢字は神との通信手段だった。一般性は必要なかったし、文字は神と王の専有物だった。次いでその目的は事象を後世に保存するためへと推移する(あるひとは「史書であっても、文字を記す、という行為自体には虚構性が不可分だ」と言うけれど、虚構を意図していないという点で割愛する)。勿論この間も、今と同じく母は子にお伽噺を語り継いでいただろうし、神話は人々の信仰を集めていただろう。虚構はすでに誕生している。虚構は文字を侵食する。文字が本来の目的を離れて虚構性を獲得したのは、虚構が人間にとって、社会にとって、また世界にとって、必要であったからだ。僕はそう信じている。
文学とは何か。僕はその答えが知りたくて、今の研究をしている。
学問とは雨水が石を穿つのに似ていると先生は言った。この世に真理なんてものがあるとして、皆そこに到達するために、人生を賭けて一滴、水を垂らす。誰もが自分こそ、最後の、石を穿つ一滴たらんと垂らすのだ。自分は、その一滴たりえるのだろうか。そう思い至って、こわくなる。そもそも、真理なんてなくて、石は幻影かもしれない。そんな曖昧なものに、研究者は本当に楽しそうに、遊ぶみたいに挑んでいる。子供みたいだ。
図書館には、そんな児戯のような雨水、思考の欠片がたくさんある。雨水を垂らし終わった人々の意志は文字になって、連綿と次に繋がっていく。なんて美しいんだろう。真理が解かれ、石が穿たれる。自分もその、いつか来る瞬間のために名を連ねる意志の流れの中にいたい。不相応だけれどそう思えてくる。ひとは誰だって、いつまでも遊んでいたいんだ。そんな当たり前のことに気付き、微笑む。ここはどこ?僕はだれ?名前は記号だ。こうやって思考が深くなっている時だけ、僕は無敵になれる。すぐそばに真理があるのがわかる。近いけれど届かない、届かない。ああ、そうか。「こう」するんだね。ねえ、僕の指先は雨水になれる?

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