海の手記

報告と記録

忘却

久しぶりにブログを書く。

気づけばもう春になっていて、審判が目前に迫っていた。花粉症もピークを過ぎて、例年なら一年でいちばん、美術館や水族館、なんてことのない理由で外に出たくなる季節だ。

最近日中はずっと寝ていることが多い。起きるともう太陽は大抵傾き始める時分になっている。これは半分意図的で、どうやら自分はいよいよ朝型の人間ではなく、無理に朝起きて勉強しようとしても結局上手くいかないことがようやくわかったから、眠れないのなら寝なければいい、といった安易な考えの下、しかし何もせずに一日を終える生活よりはずっといいと思い実践することにしている。受験期は毎朝登校という強制的なイベントがあったし、そもそも勉強なんて適当にやっていればいいと思っていた。有り体に言えば向上心が今ほどなかった。では大学受験と違い今向き合っているものがどうしてこんなにも怖いかというと、結局のところ大学は最終学歴でしかなく、どこにいても自分は自分なのだから、極論どうとでもなるのだけれど、まあ土地くらいはこだわろうかくらいにしか考えていなかったものが、今度は一生を左右するものに変わったということなのだろう。付言すればぼくが特別になる最後のチャンスだからだというのも、大きな理由だとは思う。進捗はあまり芳しくないけれど、なんだか根拠のない自信はすこしだけあって、これは大学受験のときにもあったものだから、こうした直観は、あとすこしだけれど大事にしていきたい。勿論、実感の伴わない危機感が危険であることはわかってはいるのだけれど。

勉強自体は思ったよりも楽しんでいる。センター試験の勉強はまったく楽しくなかったことを思い出すと不思議だ。おそらく強要される形の勉強がすきではないのだろう。大学は自由でいい。こんなことなら高校のときにもっと頑張れていたような気がするし、そうしたらもっと何かが変わっていたのかもしれない。正直に言えば後悔している。数年ごしに、ああ周りはこんなものと戦っていたのだなと腑に落ちるのは思いの外悔しい。わからないことがあると、昔の友人に訊ねてみたりもする。皆懐かしむように、それでいて楽しそうに教えてくれるのだけど、それぞれ積み重ねてきたものがあって、適当にやりすごして、それでいてなんだか上手くいってしまった自分が恥ずかしくなり、そういった友人が羨ましく思える。いつだってぼくは気づくのが遅い。

あと、しばらくなりを潜めていた攻撃性のようなものも、日に日に大きくなっているような気がしている。世の中は馬鹿が多い。きっとそれは目を瞑って見ようとしてこなかった事実なのだと思う。なにより、その馬鹿の中に自分が含まれていることがたまらなく嫌だ。馬鹿なりにどうにか足掻いてみているけれど、どうもああはなれそうにない。劣等感が羨望や憧憬を伴って襲ってくる。これがきっと生活といつものなのだろう。

すきなひとは前ほど頑張れないことで自分を責めなくなった。事実前よりずっと前に進んでいるし、進むことを指向している。ぼくはそれが素直に嬉しく、彼女の成功を本気で信じているし、そうなることを祈っている。これは自分がそれなりに努力してみて気づいたことなのだけれど、前よりすこしだけ、周囲に対してやさしくなれたような気がしている。冗談でも独善でもなく、自分と同じだけ、誰かの望みが叶うことを考えるようになった。これが良いことなのかどうかは正直、微妙なところだと思っている。

久しぶりにブログを書いてみるとこんなにもだらだらと起伏のない文章になってしまった。そろそろ言を閉じようと思う。

明日は起きられたなら古書市に行きたい。

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