海の手記

報告と記録

いみはない

いつまでぼくはのうのうと、平気な顔をして生きているんでしょうか。たくさんのひとの気持ちを踏みにじって、多くのひとたちの信頼を食い散らかして、それでも罰は一向に下らないのです。ともすれば、こうして生きることそれ自体が、罰なのかもしれません。だとすれば死ぬわけにはいかないな、とそう思います。ぼくは罰を甘んじて受け入れるつもりです。きっと裁かれたいのでしょう。ぼくはこんな悪性をもって生きているのに、断罪はいつまで経ってもやってこないから。
生きる価値なんてないんじゃないかと考えたことは何度かあるけれど、そのたび思い起こされるのは大好きなひとたちの顔で、なんだ、自分はこんなにも人間らしかったのかとすこし感心します。生活の中で、ただの呪縛にしか思えなかったそれらは、途端にとても愛しく感じられて、自己愛を喚起します。どうしようもなく人間が好きで、そのひとたちの住む街や、呼吸を愛しています。そうしてまた死ねなかったと笑うのです。
死にたいと、死にたいくらいつらいのとは、きっと違っていて、死ねていない以上は、きっと死にたいなんて思っていないのかもしれません。考えてしまう自分にあるのは劣等感で、考えずに生きていきたいと以前話したけれど、それでもどこかで思考を放棄してただただ時間を消費するだけの周囲を見下して馬鹿にしている自分がいます。救いようのない無能感に囚われたと思ったら、すべてを、世界の理すらも知っているみたいな危うい万能感に満たされて。考える葦だなんて、まさに丁度いい形容じゃないか。葦には何もできません。美しい詩を書くことも、音楽を奏でることも。
こんな衝動の捌け口みたいな口上にお付き合いありがとうございます。言語化するということは理論として整理するということで、さらにそれに囚われることになりかねないわけですが、どうにもぼくは書くことをやめられないようです。
どうかそのまま美しくあってください。