海の手記

報告と記録

どこまでも

病んだひとたちが嫌いで、好きです。
今さら申し開きのしようもないことですけれど、きっとぼくは病んだ人間です。もう症状は随分と長く、つまり根が深くて、それでもなまじそうとは悟られないだけの要領は持ち合わせていたようで、日常生活には影響は出ていません。こうやって病んでいると自意識というものはどんどん過剰の途を辿るばかりで、こんなにつらいのは世界でぼくだけかのようなヒロイズムに囚われることがままあります。けれど実際のぼくの人生は何ら劇的ではなく、凡庸そのものだったりします。
特別になれたり、なれなかったり、病んでいるということは決して才能などではないのです。最近そういうひとたちの手記や作品をよく読みます。今までは意図的に忌避してきたものたちだけれど、手に取ろうと思っただけ、すこしだけぼくは変わりつつあるのかもしれません。そうだといいな。そういったものたちを読んで、勿論同族嫌悪と無能感でつらくなるのですが、ぼくが本当につらいのは、それらに付随する正常なひとたちの評価です。彼らの作品は正常なひとたちにとって暗く、汚く、陰鬱なものでしかありません。自己陶酔、承認欲求、自意識過剰……。様々な指摘がなされていて、ぼくは彼らを代弁して、声を大に、そうじゃないと言いたくなります。けれど次の瞬間には、正常なのは彼らであり、正常な彼らの構築する価値観は絶対的に正常でしかなく、病んだぼくたちからは人権すら剥奪されて当然かのような感覚が生まれます。眩しくて、眩しくて、とてもじゃないけれどぼくがそうなれるとは思えなくて。そうして口をつぐむ自分はどうしてこうなのだろうと考え始めると、どこまでも沈んでいってしまうのです。小さな頃は、同じように病んではいたけれど、自意識の指向性は今よりずっとまともで、何を考えるでもなく惰性で生きるひとたちを見下して優越感に浸ったりしていました。しかし異常なのは、劣悪なのは自分のほうだと気づいてしまったのがよくなかったのでしょう。あのまま愚者で居続けられたなら、ぼくはきっと今こんなではなかった筈なのに。
結局ぼくは、自分が光のあたる、正常な場所に行ける日を望んではいないのかもしれません。歪んでしまった自己愛は、この病気すら甘受してしまったのでしょうか。いつまでも病んでいたいなんて、どうかしてるとしか思えない。
今日はここまでにしておきます。この慣性を失った時、ぼくはどうなってしまうのでしょうか。
君の周囲が暖かいのは、君のおかげだよ。