海の手記

報告と記録

にげた

どうして斜に構えちゃうんだろうなあ。どうしてしあわせをそのまま享受できないんだろうなあ。どうしてひねくれてしまうんだろうなあ。始まったなら終わりのことを考えて、どうしてそんな風にしか考えられないんだろうなあ。どうして、どうして、どうして。いつからこうで、どうしてこうで、そんなことばかり考えて生きています。あるものをあるがままに受け入れられずに、いつだって穿った見方を捨てられずに。ぼくの地球はきっと丸くないのです。人間不信は治りません。いつからかそうやって鳥瞰することが癖になってしまいました。ぼくはここにいるのに、どこか高いところから俯瞰している感覚がずっとあります。すべての感覚が到達するのにラグが生じて、その過程で本来の意味が希釈されているような気がします。とても希薄で虚ろな感情の中で、緩やかに死に絶えていく退廃感。いつからそうなのか、小さい頃はもっと世界は鮮やかだったのにとも思うけれど、あまりに遠い記憶すぎて、ぼくの虚記憶なのではないかと思い直しもします。もしかしたらぼくは生きていないんじゃないか、ジョークのつもりだったけれど、言ってみれば思いの外言い得て妙で、気持ち悪く笑うしかありません。煙草の本数が増えました。こんなものはきっと多感な思春期がすこしだけ長く続いているだけで、きっとあと十年もすれば跡形もなく消える症状だと思ってはいますが、もしこれが死ぬまで続くと考えると、煙草を吸わずにはいられないのです。ねえ、誰もが何かしらの才能を持っているだなんて、嘘だよ。そうやって思いたかっただけなんだ。きっとはじめてそう言ったひとは、きっと誰よりも特別になりたくて、でも何の才能もなかったひと。ぼくと同じ。
ぼくはまた逃げました。逃げることも大事だと何かで読んだか聞いたかしたことがあるけれど、こんな逃避行あと何回続けるつもりなんでしょう。だめだなあ。すこしだけ環境がかわって、でもぼくは何もかわっていなくて、また春が来ました。三度目の春です。まだぼくは夢をみます。間違ってきたことの夢をみます。眠りが浅い性質で、よく夢をみるけれど、そのどれもが悪夢のようで、果たしてすべてが悪夢なのかはたまた悪夢しか覚えていないだけなのか、どちらにしても都合のよい脳をしているものだと自分で呆れてしまいます。
こんなぼくを愛して。