海の手記

報告と記録

あたらしい

何かを愛す資格も、愛される資格も、ぼくにはないものだと思っていました。何かを愛してしまったら、ぼくが触れてしまったら、途端に汚れてしまう気がして。こんな人間だから、愛されるのも許されてはならない気がして。だからぼくは努めて心を鈍感に、誰よりも愚鈍であろうとしてきたし、それによって誰かが傷ついたとしてもそれは愛し愛されてしまうよりはずっとましな結果であると信じてきました。この世界はとてもとても美しくて、欠けていいものなんかひとつもなくて、その中でぼくだけが異分子で、醜悪で、汚点であるかのような誇大妄想とヒロイズムにとらわれて、ずっと生きた心地がしませんでした。自分だけが美醜を知っているかのような万能感が、自己嫌悪と無能感に反比例して増大していったのです。社会も世間もぼくにとっては憧憬の対象でありながら、恐怖の対象でしかなく、それに溶け込むためにはひたすら自分を偽るより他になかったのです。自分の本質を誰にもひた隠しにしてきたくせに誰もぼくを理解してくれないと苦悶するという愚かな自己矛盾を孕んだまま、ぼくは今の今まで生きてきました。いや、生きていくなんて表現はきっと適切ではなく、この場合むしろ死んでいくと言った方が相応しいように思います。兎に角ぼくはそうやって生活というものを手に入れました。ようやく手に入った生活はあまりに苦痛で、文字通り苦しく、痛く、何のために生きているのか、その問いの繰り返しでした。何のために生きるのか、人間誰しも一度は考えたことのある問いではあるだろうけれど、この問いは慢性的にぼくを蝕み、精神を食い散らかしました。それは今も進行しており、何のために生き、ぼくがぼくである意味は何なのか、代替可能な自己への劣等感は等号存在価値の不在であるかのような感覚を喚起します。こんな状態で自分が果たしていつまでもつのか、つい明日には破綻してしまいそうな気もするし、延々とぬるま湯のような地獄が続くような気もして、ふとそのことを想うと戦慄してしまいます。
自殺はしません。生きることが罰だというのなら、逃げてはならないし、解放されてはいけないと思うのです。それに、こんなぼくにもだいすきなひとたちがいます。誰もぼくを理解してくれてはいないけれど、それでも、一方的ではあっても、だいすきなひとたちがいるのです。自分のためになんか到底生きていられそうにもないけれど、ならばあのひとたちのしあわせを祈って、願わくは近くでみていられたら、それはぼくの生きる意味になるような気がして、だからだいすきなひとたちがいて、そのひとたちに死なないでと思ううちは、絶対に死んでやるものかと思うのです。生きて生きて生き抜いて、それから最低だったと笑ってやるつもりでいるのです。こんなぼくを許してください。いいえ、許さないでほしいのかもしれないけれど、どうか愛させてください。すきです。だいすきだよ。ぼくのたいせつなひとたち、どうか今日も生きて。

創るという行為について、何か思うことがあるとすれば、人はきっと自分の中にある事物しか創造しえないんだろうなということです。美しい人間からはきっと美しい音楽が、詩が、絵画が生まれるし、汚い人間からは汚いものしか生まれないと思っています。それでも作品に罪はなく、ぼくはぼくの創造物に対し申し訳ない気分になるのです。身から出た錆というか、ぼく自身、自分の中にわずかでもある美しさや、愛しさ、尊さなんかを、ぼくから解放してやるつもりで、切り離してやるつもりでものを創るので、創り終えた後漠然とした喪失感に苛まれ、またひとつ自分が美しさを失った寂寥感でいっぱいになるのです。人間というのは多分そうやって美しくなくなっていく生き物なのでしょう。勘違いかもしれませんが、こんなぼくでも、小さな頃は今よりすこしだけまともで、そう、美しかったような気がするのです。自分が特別であることを信じてやまなかったし、ひねくれてもいなかったし、斜に構えてもいなかったと思うのです。創るという行為に取り憑かれたぼくは、そうして自ら醜悪に身を落とす他ないのです。
きっとしあわせなんて望むべくもないのでしょう。自分が将来しあわせに救われている様子なんてまるで想像もつかないし、ならば願わくはぼくの周りの、ぼくのだいすきなひとたちがしあわせになるのを近くで見ていたいと思います。どんな仕打ちも甘んじて受け入れるつもりだけれど、それくらいのわがままは許してもらえたら、ぼくは満足です。
明日もぼくは生きます。明後日も、明々後日も、その次の日も、呼吸は連続し心臓は鼓動を打ちます。だからどうかきみがしあわせでいられますように。

良好

生来ぼくはひとというものが信じられません。人間不信というやつなのでしょう。ぼくの性質上、親しい人間というのは距離が近いことを意味しませんけれど、とはいえそういった親しい人間ですら、果ては家族ですら、その思惑や意図を勘繰ってしまうのです。それはきっと好意や信頼とは別な部分で、どれだけそのひとを好いていて、信じたいと思っているかに拘わらず発揮される性質のようです。手放しの信用というものを、ぼくはいまだしたことがありません。どれだけ信じたいと願っていても、論理と可能性ばかりがぼくを支配します。信じたいのに信じられないというのは実に苦しく、相手がぼくを信用してくれているならば尚更、ぼくを蝕みます。信用を仇で返しているような、その気持ちを裏切っているかのような感覚、事実そうなのでしょうが、ならばその不審を悟られぬようにと、また嘘と道化で取り繕うのです。信じているから信じなくていいよ、そう言ってくれるような人間がこの世にいるなら、ぼくはそのひとを愛します。恋愛だろうが、親愛だろうが、友愛だろうが、許される限りの愛をそのひとを注ぐでしょう。
こんな人間不信に拍車がかかってきたのは大学に入ってからで、どうもそれが論理を用いる学門というものに傾倒したことに起因するように思えて、自分がこれより先本当に学門の道を歩んでいいのか、自衛の観点からそう思います。自分はもうだめなのではないか、もうあとはどんどん駄目になっていくしかないのではないか、生きる価値、死ねる理由、死なない論理、そればかりが堂々巡りで、ふと得体の知れない恐怖に苛まれます。
今なら死ねると考えてもう十年が経ちました。ぼくはこうやって生きていく人間なのでしょう。死ぬまでには嘘や道化ではなく、心のそこから信じてると言える日が来ればいいなあと切に祈っています。ぼくはだいすきなひとたちのために生きます。自分のためには到底生きられそうにもないので、誰かにすがって、依存して、そうやって頑張ります。だからどうか貴方もご自愛を。

宣言

壊れ物に触らないように。
病んでいることに優劣をつけるのはおかしいことだってわかってはいるけれど、病んでいるにも様々な有り様があって、ぼくが好きなのは、自己否定を繰り返して、それでいて自己愛と周囲に守られながら、死にたいと言いながらもなんとか生きようとしているひとで、死にたい、社会なんてくそ食らえだって言っているひとはどうぞご自由にって思うし、そういうひとはむしろ壊れ物みたいに扱ってしまいます。有り体に言えば怖いのです。復帰を希求せずに諦めてしまったひとを、どうにもぼくは好きになれません。きっともうどうしようもなく苦しくて、痛くて、厭世を繰り返すしかなくて、多分優劣でいえばぼくなんかよりずっと深刻なんでしょう。同情なんていらないのだろうけれど、それすら凶器になるのだろうけれど、安心してほしい、ぼくは多分軽蔑しています。勝手に死んでろ、ぼくは死んでなんかやらない、生きて生きてああ最低な人生だったって死んでやる。ぼくのことをわかってないひとたちばかりだけど、それでも大好きなひとたちがいっぱいて、死なないでって思ううちは死んでやらない。狂っているなら狂っているで、面白おかしく生きてやるからな。ばーか。

崇拝

逃げたい。ぜんぶから逃げたいという衝動は、不意に、それでいて慢性的にぼくの精神を蝕みます。ひとりになって、誰にも迷惑をかけず、霞を食って生きていけたら、どれだけ楽かなんて考えては、そんな風になるくらいならば、いっそ死んでしまったほうがいいとも思えて、相も変わらず思考は無秩序です。およそ人生のほとんどを欺瞞と虚偽で過ごしてきた自分ですけれど、最近はもう取り繕うのにも限界が来ているようで、いつボロが出てもおかしくないというか、もう出てしまったらそれでもいいかというような精神状況にあります。先日のイベントを本当にそつなく、何の障壁もなく上手にこなしてしまえたという事実は、思ったよりもぼくを疲弊させているのかもしれません。考えない愚直さと、斜に構えない素直さへの憧憬は、いよいよぼくを殺しそうです。自分はどうしようもない人間だから、自分を許さずにいることがきっと罰で、どんな行為も自己嫌悪に帰結させなければ生きることが許されないような感覚がずっとあります。もうずっと、十年くらいはこんな風で、病んでいると言われればそうなのかもしれません。ぜんぶぼくがわるい。ぼくのような人間は嫌うことすら許されていないから、嫌うより嫌われるほうを、と生きてきたら何も嫌えなくなってしまいました。選ぶことをせず選ばれることだけを選んでいたら選ぶことがとても怖くなりました。博愛なんて聞こえは良いけれど、それは特別がないということで、つまり何も愛せないのと同義です。主体性というもの自体が許されていないみたいな、狂った内省と自虐を繰り返して、それでも生活というのは自己愛との戦いで。こうやって書き綴る内容も、多少表現を変えているだけで、毎度同じことの繰り返しで、自分がまるで進退ない人間であることが自覚せられてつらくなります。人はきっとぼくを苦しんでいるふりをしている奴だと判断するでしょう。もしかしたらそうなのかもしれませんね。そうだったら幾分救われるのですけど。

駄文

ぼくはあまり情緒が平素より安定しているほうではないから、日によって気分が大いに異なる。気分が異なれば、食べたいものが異なるし、それは読書でも同じことだ。ぼくは平時数冊の本を並行して読んでいる。暗い本、明るい本、学術書、啓蒙書……。ぼくが見るたび読んでいる本を変えるから、周囲にはきっとたいした速読家か多読家とでも思われているかもしれないが、誤りであることを表明しておく。むしろ気分が異なれば一向に読み進められない本なんかもあったりして、また読み進める速度、分量も気分に依存するので結果として一冊読了するのにかかる時間は遅い上に、気分が乗らないまま積まれていく書籍は後を絶たない。そろそろ積読本を消化したいなあ、と気分屋の性格に鞭打って、山崩しに着手したはいいけれど、乗らないものは乗らないままで、まったく頁を繰る手は進まない。やはりこんな素晴らしい作品群を、気分が乗らないというだけで楽しめないままに無理矢理読了するような真似は作家や創作に携わっている多くの方々に対しあまりに無礼なのではないかと訳のわからない理論を打ち出しては、一体何を言ってるんだと我にかえりまた重い食指を動かす。
どうせ長くないであろう人生のうちに読みたい本は尽きないのに、書籍は次々出版される。そう考えたら永遠に生きていたいなんて血迷った考えが想起されるけれど、読書という行為は他者の価値観の摂取と同義だから、多分五万かそこら読み終えたあたりで自分が誰なのかわからなくなりそう。自分の罪状も忘却できるのならそれもありかなとか、いやそれなら死んでも同じことだろうとか、やはり栓のない思考ばかりが頭の中を占有している。
思考と言語、どちらが先行するのかぼくは哲学に詳しくないから知らない。けれどぼくは未だ自分の感情を言語化できなかったことはない。それだけぼくは言語の力を信じているし、これは誰にだって備わっている能力だとも思う。なのに何かを綴る時、本来の思考とテクストとして創出された言語に齟齬を感じるのは何故だろう。ぼくがいくら思考を十全に表したつもりでも、テクストという結果はまるでぼくの意にそぐわない。不思議でならない。思考を言語に変換するプロセスで原本(思考)が書き換わってしまったのだろうか。ぼくの知る優れた物書きたちは自分の作品は思考と一致しているのだろうか。もしかしたら十全に表現できているという自己評価はぼくの自信過剰なのかもしれない。この文章もまた、ぼくの思考の完全なトレースでありながら、どこかずれている。ぼくはそれが素直に気持ち悪い。