海の手記

報告と記録

自由

自分は自由の中にいる。まだ。
自由とははじめから箱の中にあるのです。時間と共に収縮し続ける箱の中で、ぼくたちは徐々に不自由になっていきます。そしてきっと用意される箱の大小は、人によって異なるのです。なりたいという感情は、その箱の中においてのみ尊重されます。ぼくたちはその箱の中で、最後に何かを選び取らなければなりません。けれど箱は止まることなく収縮していますから、早く取らなければ消えてしまう類のものもあります。自分のなりたいものは生まれた時すでに箱の外にあり、幼少期何の訓練も積まなかった自分は箱の中においても、選び取りたかったそれを掴み損ねました。箱に残されたもののすべては少なくともぼくには等価でしかなく、最早自由とはこうして栓のない駄々をこねる行為でしかありません。自分の箱があるいはもっと大きければ。もっと早くに何かを選んでいれば。こんな愚痴のような醜態を晒してなお、それでも箱の中を揺蕩うことをやめられません。敗北者として生きることを考えると気が狂いそうです。こんな自尊心をぼくはどこで身につけてきたのでしょうか。

引力

創ることに取り憑かれている。
悔しい。悔しい。悔しい。
届き得ない領域はいつだって眼前に広がっている。ぼくにとっての敗北の一線は、おそらく誰の目の前にだってある。ぼくの届き得ない領域で、そのまた先と其処とを分ける一線を前に絶望し、それでもまだ創り、届かず、才能を妬み、恨み、敗北し、そうやって続き続けているひとをぼくは知っている。
きっとぼくだって、多くはないだろうけれど、何人もの絶望の上に立っている。自覚すべきだ。この一線は、誰の前にもあるものだと。そして創るべきだ。彼らがそうしたように。彼女らがそうしたように。認めなければ敗北は敗北ではないのだから。
それでいて、そんなことに頓着なく、自覚なく、穏やかに、たおやかに、自己が自己で完結できる天才にぼくはどうしたって惹かれてしまうのだ。才能に魅せられたぼくは、どうしてもそれを希求する。負けず嫌いに生まれついてしまったのだから、仕方がないなあ。

崩壊していく。僕はその破片を拾い、もう戻らないのだなと悟る。恥ずかしい。こんな有り様なのに、未だ自尊心のみが高くそびえ立つ精神が恥ずかしい。僕は叩く。殴る。壊れろ、壊れろ、壊れろ。何もできないことなんてはじめからわかっていただろう。つけあがるな。何かできると思った?嗤えるね、二流ですらないくせに。不当だ、理解してない、見下してるのはどちらだ。ここにはもう恥ずかしさしかない。見下されて当然であることを、何ら正当な評価であることを自覚しろ。苛つくな。何も間違いじゃない。お前は「出来ない子」なのだから。内省しろ。悔しいか。悔しくなるということは過大評価だったということだ。阿呆。阿呆。

想像

この街に来ればなにかが変わる気がしていました。
錯覚だって、幻想だってわかってはいたけれど、それをそのまま捨てるような潔さはぼくにはなく、金星が本当に金色なのか、確かめに行くつもりでこの街に来ました。なるほど確かにここはぼくの思い描いていたものそのもので、むしろそれ以上ですらありました。そして予想外なことがもうひとつありました。自分は自分が思っているよりも遥かになんでもなく、なんでもなかったのです。自己卑下が足らなかったのです。これでもなお井蛙であったことを思い知るのに、この街は十分でした。優秀なひとたち、特別なひとたち。この煩悶さえ、何ら特別でないことも知りました。世の中はぼくの上位互換で溢れていて、ぼくのつけいる隙なんてこれっぽっちもないことを知りました。そう改めて思い知り、こうして沈んでいるところをみると、どうやら醜くも自分はまだそれでもどうにかなにかに、特別になれるのではないか、滑り込めるんじゃあないかと、そんな風に考えていたらしいのです。羞恥心と無能感、絶望、死にたくないと考えることに一定の努力を要する、生物失格。取り柄がない。器用で、要領よく。そんな何の価値もないことばかり上手くなり、できないことすらできず、下劣に身を落とすことすら叶わない、そんな平凡。退屈だ。生活は簡単だし、試験も人付き合いも、バイトもすべて生きるのに比べれば何てことのない些事でした。
ぼくはぼくのことがきらいです。声も、容姿も、なにもできない無能さ加減も。どうか精々、繋ぎ止めてくれるひとたちと、大切なあのひとがいるうちは、許せない自分を許せたらいいな。

胡蝶

あなたも、あなたもですか。
やさしくて、やさしくて、世界がつらくて。そんなひとばかりだ。才能の代償に壊れてしまうひとたちばかりだ。音楽があなたを繋ぎ止めているのなら、どうかやめないでほしい。あんなに楽しそうに、それをあなたは承認欲求なんて皮肉っていたけれど、おそらくあなたの場所はそこだ。
あんなやさしい壊れ方をぼくもしたい。多くなくていいから、周りにいつでもひとがいて、死ぬことを許してくれなくて、存在を決定付けてくれて。そしてぼくは恩返しに何かを創る。なんでもいい。とにかく何かを創って、そうやって生きていきたい。
最近すこしだけ、もうなくしてしまったかと思っていた攻撃性みたいなものの残滓が、まだかすかにあることを知った。本当にくだらないと思った。思考は神様の領分だけれど、神様になろうとすることにこそ人間性がある。考えるな、でも考えろ。
暑い。溶けてしまいそう。濡れない雨があれば、もっと雨をすきになれるのに。わからないという感情は非常に人間的だ。わかるものはとても少ない。降ってくる雨の温度を、ぼくは知らない。
どうやって歩いているのかを、ぼくは知らない。
どうやって呼吸をしているのかを、ぼくは知らない。
知らない。
知らない。
ぼくが誰なのかを、ぼくは知らない。
きっとすれ違う誰も知らない。
ふと気持ち悪くなる。
不随意筋や、伸びる爪。まるで生きようとしているのがぼくではなくてぼくの身体であるような。
錯覚だ。ぼくは生きたい。
でもどこまでが錯覚なのかを、ぼくは知らない。

改札

私は私という一個の人間が健全に消費されることを望む。私に漱石になることは難しい。宗教は私を救わないからだ。「許してくださる」という文言は、確かに惹句として効果的であるかもしれないけど、私は別に神に許していただきたいわけではないのだから。私は私に許されたい。私という一個が、健全に消費されているうちはそれができる。私という一個の残量が、あとどのくらいなのか。どうして皆それに思いを馳せずにいられるの?
「生きていく力に欠けていた」
「弱かった、弱かった」
「経済的な問題が……」
ああちがう、ちがうでしょう? ただ彼らは、彼女らは、すこしやさしすぎただけ、頭がよすぎただけ、遠くをみてしまっただけ、そのひとは、きっとあなたの前にいるときから、すでにそこにいなかった。論理で彼らを汚さないで。私は彼らを美しいとは絶対に言わないけれど、それだけはそう思う。「まだ若いのに……」なんて馬鹿らしい。そうでなくては価値などないのだ。
私は彼ら、彼女らとはちがう。人並みにやさしくあろうとは心がけているけれど、やさしすぎるということはないし、相対的に頭がよいとしてもそれが遠くに行けるほどよいというわけでは決してなく、行きたいとも思わない。また本棚がいるね。何度も、何度も、そんな話が永遠に続くことを私は望んでいる。
貴女はどう?


言葉の持つ表現力というのはひとが信じているほど大きくはないから、語弊が生じるかもしれないけれど(あるいはひとが言葉というツールを使いこなせていない。こちらのほうが貴女好みかもしれませんね)、これは詰問でも糾弾でもないよ。ましてこの文章から貴女は何か示唆的なものを感じとるかもしれないが、私はすこぶる快調です。こんなにしあわせなのに、どうか心配なさらないで。

眠気

精神の寿命は、きっと身体の寿命よりも短い。思考はきっと娯楽だ。生命活動においておよそ不必要な行為だ。人間は考える葦というけれど、おそらく人間は考えるようにはつくられていないのだ。他の動物と同じ。なまじ神に近づいたがために、神様の娯楽に手を出した。人間はいつだって不遜だ。ぼくたちは神様ではないのだから、精神がそれに耐えられないのは当然のことだろう。だからぼくは知りすぎてしまうことに恐怖する。神に近づきすぎた人たちの思考の片鱗に、輪郭に触れることがたまらなく怖い。繰り返す。思考は神様の領分だ。考えるな考えるな考えるな。
ひとまず今はとてもしあわせなのだから、何も怯えることはない。