海の手記

報告と記録

消えてしまったらと想像するまでに肥大化した自意識を必死に、文字通り全霊をかけて飼い慣らすことに従事しています。創作という行為により一時的に冷却されるそれとの付き合い方を探しているのです。誰かになりたいと言うにはあまりに僕は僕という人格に執着してしまっています。自壊するくらいならば、自重に耐えかねてしまうくらいならば、誰かのために生きていたほうがずっといいと、僕は僕を規定しました。結果僕はやさしくなれたし、よわくなることに無事成功して、丸い丸い安寧を得ました。でもその安寧のわずかな間隙、取り繕えないほどちいさな空間に、いつだって恐怖はいて、またその存在がまだ自分の中にあることに、僕自身が依存してしまっているのです。
結局自分は何も出来ない人間でした。僕ごときのやさしさでは彼女を救えなかったし、ついぞ僕から何か意味のあるものは生まれそうにもありません。無為に過ごしてきた時間は自意識を膨らませるばかりで、当然僕に福音を与えることはありませんでした。自分が偽物であり何も成し得ない人間であることを甘受できるほど、僕の自意識は強い仕組みをしていなくて、また絶望し、諦観に身を委ねることも恐ろしく、詰まる所また無為な時間を繰り返すより他にないのです。
可愛いひとを、強くて弱いあのひとを、どうしてしまいたいのか、あるいはどうしてあげられるのか、考えています。でも自分は何も出来ない人間だから、出来ないことすら出来ない人間だから、行き場のない無力感と劣等感に苛まれて、足踏みすら出来ず、ただただ呆然と立ち尽くすだけなのです。

輪郭

文学ってなんだろう。
文学って人生に必要だろうか。よく「食べ物を食べなければ死んでしまうが文学はちがう。そこが文学のいいところだ」なんて言うけれど、例えば文学(ここでいう「文学」とは文字を媒介とするあらゆる事象、あるいは文字を媒介としない虚構性を有する事象をさす)にまったく触れずに養成された人間が果たして人間性を持ちうるかどうか(この問いにはまず「人間性」とは何かについて規定する必要がある)。原初、漢字は神との通信手段だった。一般性は必要なかったし、文字は神と王の専有物だった。次いでその目的は事象を後世に保存するためへと推移する(あるひとは「史書であっても、文字を記す、という行為自体には虚構性が不可分だ」と言うけれど、虚構を意図していないという点で割愛する)。勿論この間も、今と同じく母は子にお伽噺を語り継いでいただろうし、神話は人々の信仰を集めていただろう。虚構はすでに誕生している。虚構は文字を侵食する。文字が本来の目的を離れて虚構性を獲得したのは、虚構が人間にとって、社会にとって、また世界にとって、必要であったからだ。僕はそう信じている。
文学とは何か。僕はその答えが知りたくて、今の研究をしている。
学問とは雨水が石を穿つのに似ていると先生は言った。この世に真理なんてものがあるとして、皆そこに到達するために、人生を賭けて一滴、水を垂らす。誰もが自分こそ、最後の、石を穿つ一滴たらんと垂らすのだ。自分は、その一滴たりえるのだろうか。そう思い至って、こわくなる。そもそも、真理なんてなくて、石は幻影かもしれない。そんな曖昧なものに、研究者は本当に楽しそうに、遊ぶみたいに挑んでいる。子供みたいだ。
図書館には、そんな児戯のような雨水、思考の欠片がたくさんある。雨水を垂らし終わった人々の意志は文字になって、連綿と次に繋がっていく。なんて美しいんだろう。真理が解かれ、石が穿たれる。自分もその、いつか来る瞬間のために名を連ねる意志の流れの中にいたい。不相応だけれどそう思えてくる。ひとは誰だって、いつまでも遊んでいたいんだ。そんな当たり前のことに気付き、微笑む。ここはどこ?僕はだれ?名前は記号だ。こうやって思考が深くなっている時だけ、僕は無敵になれる。すぐそばに真理があるのがわかる。近いけれど届かない、届かない。ああ、そうか。「こう」するんだね。ねえ、僕の指先は雨水になれる?

自由

自分は自由の中にいる。まだ。
自由とははじめから箱の中にあるのです。時間と共に収縮し続ける箱の中で、ぼくたちは徐々に不自由になっていきます。そしてきっと用意される箱の大小は、人によって異なるのです。なりたいという感情は、その箱の中においてのみ尊重されます。ぼくたちはその箱の中で、最後に何かを選び取らなければなりません。けれど箱は止まることなく収縮していますから、早く取らなければ消えてしまう類のものもあります。自分のなりたいものは生まれた時すでに箱の外にあり、幼少期何の訓練も積まなかった自分は箱の中においても、選び取りたかったそれを掴み損ねました。箱に残されたもののすべては少なくともぼくには等価でしかなく、最早自由とはこうして栓のない駄々をこねる行為でしかありません。自分の箱があるいはもっと大きければ。もっと早くに何かを選んでいれば。こんな愚痴のような醜態を晒してなお、それでも箱の中を揺蕩うことをやめられません。敗北者として生きることを考えると気が狂いそうです。こんな自尊心をぼくはどこで身につけてきたのでしょうか。

引力

創ることに取り憑かれている。
悔しい。悔しい。悔しい。
届き得ない領域はいつだって眼前に広がっている。ぼくにとっての敗北の一線は、おそらく誰の目の前にだってある。ぼくの届き得ない領域で、そのまた先と其処とを分ける一線を前に絶望し、それでもまだ創り、届かず、才能を妬み、恨み、敗北し、そうやって続き続けているひとをぼくは知っている。
きっとぼくだって、多くはないだろうけれど、何人もの絶望の上に立っている。自覚すべきだ。この一線は、誰の前にもあるものだと。そして創るべきだ。彼らがそうしたように。彼女らがそうしたように。認めなければ敗北は敗北ではないのだから。
それでいて、そんなことに頓着なく、自覚なく、穏やかに、たおやかに、自己が自己で完結できる天才にぼくはどうしたって惹かれてしまうのだ。才能に魅せられたぼくは、どうしてもそれを希求する。負けず嫌いに生まれついてしまったのだから、仕方がないなあ。

崩壊していく。僕はその破片を拾い、もう戻らないのだなと悟る。恥ずかしい。こんな有り様なのに、未だ自尊心のみが高くそびえ立つ精神が恥ずかしい。僕は叩く。殴る。壊れろ、壊れろ、壊れろ。何もできないことなんてはじめからわかっていただろう。つけあがるな。何かできると思った?嗤えるね、二流ですらないくせに。不当だ、理解してない、見下してるのはどちらだ。ここにはもう恥ずかしさしかない。見下されて当然であることを、何ら正当な評価であることを自覚しろ。苛つくな。何も間違いじゃない。お前は「出来ない子」なのだから。内省しろ。悔しいか。悔しくなるということは過大評価だったということだ。阿呆。阿呆。

想像

この街に来ればなにかが変わる気がしていました。
錯覚だって、幻想だってわかってはいたけれど、それをそのまま捨てるような潔さはぼくにはなく、金星が本当に金色なのか、確かめに行くつもりでこの街に来ました。なるほど確かにここはぼくの思い描いていたものそのもので、むしろそれ以上ですらありました。そして予想外なことがもうひとつありました。自分は自分が思っているよりも遥かになんでもなく、なんでもなかったのです。自己卑下が足らなかったのです。これでもなお井蛙であったことを思い知るのに、この街は十分でした。優秀なひとたち、特別なひとたち。この煩悶さえ、何ら特別でないことも知りました。世の中はぼくの上位互換で溢れていて、ぼくのつけいる隙なんてこれっぽっちもないことを知りました。そう改めて思い知り、こうして沈んでいるところをみると、どうやら醜くも自分はまだそれでもどうにかなにかに、特別になれるのではないか、滑り込めるんじゃあないかと、そんな風に考えていたらしいのです。羞恥心と無能感、絶望、死にたくないと考えることに一定の努力を要する、生物失格。取り柄がない。器用で、要領よく。そんな何の価値もないことばかり上手くなり、できないことすらできず、下劣に身を落とすことすら叶わない、そんな平凡。退屈だ。生活は簡単だし、試験も人付き合いも、バイトもすべて生きるのに比べれば何てことのない些事でした。
ぼくはぼくのことがきらいです。声も、容姿も、なにもできない無能さ加減も。どうか精々、繋ぎ止めてくれるひとたちと、大切なあのひとがいるうちは、許せない自分を許せたらいいな。

胡蝶

あなたも、あなたもですか。
やさしくて、やさしくて、世界がつらくて。そんなひとばかりだ。才能の代償に壊れてしまうひとたちばかりだ。音楽があなたを繋ぎ止めているのなら、どうかやめないでほしい。あんなに楽しそうに、それをあなたは承認欲求なんて皮肉っていたけれど、おそらくあなたの場所はそこだ。
あんなやさしい壊れ方をぼくもしたい。多くなくていいから、周りにいつでもひとがいて、死ぬことを許してくれなくて、存在を決定付けてくれて。そしてぼくは恩返しに何かを創る。なんでもいい。とにかく何かを創って、そうやって生きていきたい。
最近すこしだけ、もうなくしてしまったかと思っていた攻撃性みたいなものの残滓が、まだかすかにあることを知った。本当にくだらないと思った。思考は神様の領分だけれど、神様になろうとすることにこそ人間性がある。考えるな、でも考えろ。
暑い。溶けてしまいそう。濡れない雨があれば、もっと雨をすきになれるのに。わからないという感情は非常に人間的だ。わかるものはとても少ない。降ってくる雨の温度を、ぼくは知らない。
どうやって歩いているのかを、ぼくは知らない。
どうやって呼吸をしているのかを、ぼくは知らない。
知らない。
知らない。
ぼくが誰なのかを、ぼくは知らない。
きっとすれ違う誰も知らない。
ふと気持ち悪くなる。
不随意筋や、伸びる爪。まるで生きようとしているのがぼくではなくてぼくの身体であるような。
錯覚だ。ぼくは生きたい。
でもどこまでが錯覚なのかを、ぼくは知らない。