海の手記

報告と記録

ふと

本当に自分が気持ち悪くて仕方がない。
声帯を震わせ、口腔から放たれる言葉はまさしく本当な筈なのに、相反するどろどろと粘度を持った感情がいまだ僕の中から消えない。最低な気分。最低な思考。傷つくのは平気だけれど、傷つけるのは嫌だ。僕に起因する何かが、他者を変質させてしまうことがとても怖い。だからこれでいいんだと思う。最適解だ。こんなことを何度反芻すればいいんだろう。

ああもうだめだな、と思う瞬間がいつもあります。
僕はもうひとを羨んだり、自分に絶望したりはしたくないのです。自分以外を無能と切り伏せ、自分の蒙昧であることに無知であった頃、間違いなく僕は誰よりも天才だったし、誰よりも神様に近かった。
自分が不出来なわけでは決してありません。僕は天才として生まれてきました。不出来なんてことを認めてしまってはまるで両親のせいにしているようで、いいえ僕がこうまで無能であるのは自分の責任であり、怠惰に全てを疎かにしてきた結果なのです。僕が「こう」なのは他でもない僕に起因するのです。そう信じています。
やさしくあり続けることが僕の意味です。やさしくなければ生きていてはだめな気がして、僕は自らをやさしくあれと鞭打つのです。
ねえ、僕は生きていていいんでしょうか。なんて、生きてはいけない人間も、生きているべき人間も本当はない筈なのに、ヒロイズムに浸るのは気持ちがいいね。
僕には、まだやりたいことがたくさんあります(そしてその多くは僕には出来ないことです)。
僕には、大切なひとたちがたくさんいます(ですが僕は僕が大切ではありません)。
ねえ、僕はここにいてもいいんでしょうか。

宗教

かみさまがいました。
ああ、彼女は知っている。自身がいくつもの絶望と、神の寵愛の上に立っていることを彼女は知っている。だからあれは儀式だった。彼女はあの場所にいる誰のためにも歌っていなかった。供物は声であり、歌であり、祈りであった。
一途な宗教を、ぼくたちはみていただけなのだ。

蝶々

愛しい寝息を聞きながら、ふと今なら読めるような気がして、例の本をほんのすこしだけ。美しい筆致で綴られるひとりの女性の物語です。この本は時間をかけて読もうと決めました。まあ僕は元々あまり読むのがはやいほうではないのですけれど。新しい語彙も手に入れました。涵養、瀟洒。
あとどのくらい本が読めるでしょうか。そのことを想うとすこしだけさみしい。

綺麗

ぼくがこんなにも切なくて、可愛い魔法にかかっていることを貴女は知っていますか。特別美しく、一等淡い、そんな魔法です。多幸感はとても柔らかい感触で、わずかにあたたかく、なみだが出ます。
貴女がつくってくれたぼくという新しい人格が、ぼくはとてもとてもいとおしく、相も変わらず危うく、歪な、それでも貴女のそれにすこしだけ似てきたその輪郭を、出来るだけやさしく撫でています。
たくさんの貴女を知れた、良い旅行だったと思います。ぼくたちらしい始まりが、柔らかな手の感触を伴って訪れました。貴女の耳朶に、陳腐で申し訳ないけれど、あの光がいつまでも続くことを祈ります。
ぼくは彼女の育ったあの街の名前も、買った本のタイトルも、風景や彼女の生活の一部を、ずっと忘れないでいることでしょう。そのすべてが彼女という人間と一緒にぼくの中に記録されるのです。あのくじらの絵本を、ぼくはきっと忘れません。もう次のことを考えている浮かれ気味なぼくをどうか許してください。

消えてしまったらと想像するまでに肥大化した自意識を必死に、文字通り全霊をかけて飼い慣らすことに従事しています。創作という行為により一時的に冷却されるそれとの付き合い方を探しているのです。誰かになりたいと言うにはあまりに僕は僕という人格に執着してしまっています。自壊するくらいならば、自重に耐えかねてしまうくらいならば、誰かのために生きていたほうがずっといいと、僕は僕を規定しました。結果僕はやさしくなれたし、よわくなることに無事成功して、丸い丸い安寧を得ました。でもその安寧のわずかな間隙、取り繕えないほどちいさな空間に、いつだって恐怖はいて、またその存在がまだ自分の中にあることに、僕自身が依存してしまっているのです。
結局自分は何も出来ない人間でした。僕ごときのやさしさでは彼女を救えなかったし、ついぞ僕から何か意味のあるものは生まれそうにもありません。無為に過ごしてきた時間は自意識を膨らませるばかりで、当然僕に福音を与えることはありませんでした。自分が偽物であり何も成し得ない人間であることを甘受できるほど、僕の自意識は強い仕組みをしていなくて、また絶望し、諦観に身を委ねることも恐ろしく、詰まる所また無為な時間を繰り返すより他にないのです。
可愛いひとを、強くて弱いあのひとを、どうしてしまいたいのか、あるいはどうしてあげられるのか、考えています。でも自分は何も出来ない人間だから、出来ないことすら出来ない人間だから、行き場のない無力感と劣等感に苛まれて、足踏みすら出来ず、ただただ呆然と立ち尽くすだけなのです。

輪郭

文学ってなんだろう。
文学って人生に必要だろうか。よく「食べ物を食べなければ死んでしまうが文学はちがう。そこが文学のいいところだ」なんて言うけれど、例えば文学(ここでいう「文学」とは文字を媒介とするあらゆる事象、あるいは文字を媒介としない虚構性を有する事象をさす)にまったく触れずに養成された人間が果たして人間性を持ちうるかどうか(この問いにはまず「人間性」とは何かについて規定する必要がある)。原初、漢字は神との通信手段だった。一般性は必要なかったし、文字は神と王の専有物だった。次いでその目的は事象を後世に保存するためへと推移する(あるひとは「史書であっても、文字を記す、という行為自体には虚構性が不可分だ」と言うけれど、虚構を意図していないという点で割愛する)。勿論この間も、今と同じく母は子にお伽噺を語り継いでいただろうし、神話は人々の信仰を集めていただろう。虚構はすでに誕生している。虚構は文字を侵食する。文字が本来の目的を離れて虚構性を獲得したのは、虚構が人間にとって、社会にとって、また世界にとって、必要であったからだ。僕はそう信じている。
文学とは何か。僕はその答えが知りたくて、今の研究をしている。
学問とは雨水が石を穿つのに似ていると先生は言った。この世に真理なんてものがあるとして、皆そこに到達するために、人生を賭けて一滴、水を垂らす。誰もが自分こそ、最後の、石を穿つ一滴たらんと垂らすのだ。自分は、その一滴たりえるのだろうか。そう思い至って、こわくなる。そもそも、真理なんてなくて、石は幻影かもしれない。そんな曖昧なものに、研究者は本当に楽しそうに、遊ぶみたいに挑んでいる。子供みたいだ。
図書館には、そんな児戯のような雨水、思考の欠片がたくさんある。雨水を垂らし終わった人々の意志は文字になって、連綿と次に繋がっていく。なんて美しいんだろう。真理が解かれ、石が穿たれる。自分もその、いつか来る瞬間のために名を連ねる意志の流れの中にいたい。不相応だけれどそう思えてくる。ひとは誰だって、いつまでも遊んでいたいんだ。そんな当たり前のことに気付き、微笑む。ここはどこ?僕はだれ?名前は記号だ。こうやって思考が深くなっている時だけ、僕は無敵になれる。すぐそばに真理があるのがわかる。近いけれど届かない、届かない。ああ、そうか。「こう」するんだね。ねえ、僕の指先は雨水になれる?