海の手記

報告と記録

貴女と交際をはじめてもいいと思った理由は、この人は私が自殺してもきっと泣かないだろう、と思ったからだった。
当時(そして現在も)の私には自分はおそらく自殺するんだろうという漠然とした予感があって、輪にかけて他人に興味がなかったから、恋愛だなんてまるで関心がなかった。人を好きになるってことがどういうことなのかわからない。そんな思春期みたいなことを本気で思っていた。
だから貴女と初めて話したとき、死ぬこと、そして生きることの空虚さについて自分の口から極めて自然に出たのは、本当に吃驚した。それまでどうにか誰にも悟られず、平穏に暮らしていた私にとって、それは青天の霹靂に近かったから。
出会った頃の貴女は今よりずっと死に近くて、懸命にそれから逃げようとしていた。私はその危うさをとても美しいと思ったし、だからこそ私が自殺したとしても、その意図を正確に理解してくれるだろうと思った。
これが、たぶん私が貴女に求めた、初めてのもの。趣味が合うとか、きれいな手をしていたとか、そんなことは貴女の魅力を構成するいち要素でしかなくて、私が貴女に求めるはずだったものは、これ以上でも、これ以下でもなかった。貴女の耳に、夜の明かりを反射したちいさな銀色があった頃の話。

それからたくさんのことがあった。貴女はその都度私のことを理解してくれた。やさしい声音で。時には理解できないと声を荒げるやり方で。
目に見えて薄れていく貴女の愛を、それでも繋ぎ止めていたいと思った頃には、もうたくさんのものを貴女に求めてしまっていた。
反面貴女はどんどん健康的になった。それがたとえ私を必要としないことと同義だったとしても、私はそれが本当に嬉しかった。

私はきっとこれまで、随分貴女を傷つけた。本当にごめんなさい。自分勝手にみっともなく貴女を繋ぎ止めて、それでできたことは何だったんだろうか。貴女を傷つけたいわけでも、自分ひとりしあわせになりたかったわけでもなくて、ふたりでしあわせになりたかっただけだったのに。
あの時もっとこうしていればと、そんな類の後悔が、ないと言えば嘘になるだろう。でも、私は貴女のつくってくれた今の私が本当にすきなのだ。

まだすきですと、そう言えば貴女は困るかもしれない。でも、まだこのつづきを信じていてもいいですか。私はそのあいだ、貴女のくれた時間をもっと意味のあるものに、生きることのために使うから。

最後に、厚かましいかもしれないけれど。貴女には貴女らしく、あるいは貴女らしくなく振る舞う権利があります。どれが本当の貴女かなんて悩む必要は本当はないんだよ。なりたい貴女と今の貴女に溝があったとして、それに絶望する気持ちはわかるけれど、でも本当の貴女は貴女が選んでいい。そしてそれは絶対にひとつでしかいけなかったり、一貫していなければならないものではありません。選んだ結果ふしあわせになることもあるでしょう。でも、ふしあわせになる自由だってこの世にはあるということを、覚えていてください。貴女はどこまでも自由なのだということを、覚えていてください。

本当にごめんなさい。
そして、ありがとう。

貴女は今たのしいのか。どうすれば笑ってくれるだろうか。
どうすれば貴女を無様にでも良いから繋ぎ止めていられるだろうか。
ずっとそんなようなことを考えている。

ここ最近、一度も目を覚まさずに朝を迎えた記憶がなかった。それが、貴女がいるだけでカーテンから漏れた陽の光で目が覚めた。それだけは確かで、それこそがぼくにとっての意味だと考えている。
貴女は朝にひどく弱い。ぼくだって強い訳ではないけれど、何分浅い眠りから覚醒することはそれほど難しくない。貴女はいつまでも布団にしがみついて、ここがまるで自分の領域であるかのように全身を使って主張しはじめる。その図々しさが、ぼくはとてもいとおしいのだ。ぼくの部屋が、貴女のものになって、それがとても嬉しいのだ。
学生のときに比べたら、随分強くなった貴女は、時折もうぼくなど必要ないのだと感じさせる振る舞いを見せるようになった。それに比べて、ぼくはどんどん弱くなっている。仕事や新しい環境なんて本当に些末なことだ。ぼくのような人間がこの上その程度に順応できないとなれば、とっくの昔に自殺しているだろうから。
なんとなくぜんぶがぼんやりとしている。久々に会った実家の犬は、片目が白く濁っていて、白内障だろうと父が言った。ぼくももうすこし頑張るから、お前も頑張ってほしい、と無茶な約束をした。精一杯履行に努めるつもりではあるけれど。

貴女は仕事がたのしそうだ。約一年前のことを考えるととても微笑ましい。やはり本棚を興味深そうに眺めている貴女の横顔がすきだし、同じ顔で仕事をしているんだろうと思った。
それから愚痴も増えた。ぼくにはわからないことも多いけれど、吐き出せずに泣いてばかりだったあの頃に比べたらよっぽど健全だ。携帯端末の前でそんなことを考えて、ぼくがひとり笑っていたりすることを、貴女は知らないでしょう。だってぼくが冷たい返事ばかりするから。ごめんなさい。
仕事の話をする貴女は本当にたのしそうで、一緒にいたいというわがままを押し通すだけの価値が今のぼくにはないことが思い起こされてしまう。頑張らなければならない。犬も頑張っているのだから。

これからぼくたちがどうなるのか、わかりはしないけれど、確かなのは、来年、祭りが始まる頃には、きっとぼくはあの木の香りと、苔寺の古いにおいを思い出すのだ。

死のう死のうと思っていたらいつの間にか世間はゴールデンウィークになっていた。
仕事には随分慣れた。結局のところ何一つ困難はなく、肥大化した自意識をへし折るには労働はあまりに容易かった。職場のキーボードの大きさにも、行儀正しく堅苦しい文章の書き方も、すぐに生活の一部となってしまった。
媚びを売り、かける迷惑ひとつひとつに謝意を示していればいいだけの人間関係が上手くいかないと嘆く人たちの気持ちが、あるいは煩わしいことを煩わしいというただ一点に拠って享受できないという稚拙さがぼくにはわからないけれど、それでも煩わしいものは煩わしいので早々に適切な距離を形成しなければならないと思いつつ、しかし人間は思いの外人間関係がすきなのでままならない。
これができなければ死のうと、その時その時はきっと本当なのだけれど、気づけば死ぬ死ぬ詐欺で終わっている。ぼくの場合、騙すのも騙されるのもぼくなので始末に負えない。
せっかくの休日を、誰かに拘束されたいという気持ちも、ぼくにはわからない。学生の頃のように、いつだって時間をもて余している(つもり)ならともかく、貴重な時間を誰かに献上するような、それに見合う価値が会合の類や遊びにあるとは思えない。きっとずっとひとりでいたいのだと思う。拒絶し続けて、その結果、本当のひとりになってしまっても、それはそれでいいと今は思っている。
最近はずっとねむれていない。それでも問題ない程度の労働環境でよかったと思う。仕事中、仕事に集中したことは、いまだにない。
新居は日当たりがよくて、ベランダも以前よりすこし広くなったおかげで、休日は布団が干せるようになった。誰かと会話しているより、そっちのほうがよっぽどしあわせだ。
試験が近い。自信はない。受かることにも、おちたあと正気でいられることにも。ただ試験におちたために狂ったと、そう誤解されることはぼくにとって何よりも心外なので、精々正気の今のうちに、正気のふりをする練習でもしておくことにする。
今が本当に正気であれば、だが。

今日がこの部屋で過ごす最後の夜らしい。
いつだかみた部屋が人格を持つCM(たしか不動産屋の広告だった)をみてから、なんだか愛着がわいてしまってよくない。あのCMのように色んなことを共にしたねという旨の言葉を放ってみたが、当然返事はなかった。というよりあの部屋は築年数的にぼくより若い筈なのでCMの彼(?)ほど包容力があるとも思えなかった。むしろ散々散らかすなどしたぼくなど部屋的にはさっさと追い出して、代わりに若い女でも迎えたいに違いない(部屋に男性性を認めるならば、だが)。
なんの感慨もないと言えば嘘になる。この部屋ではたくさんのことがあった。大学に入り露骨に引きこもりとなったぼくとこの四年間最も付き合いがよかったのは彼だ。その点にかんしては礼を言いたい。聞こえているか、ありがとう。
進路も決まっていないままこの部屋を出るぼくを心配してくれているのか、はたまた嗤っているのか。ともかく君との関係もおそらくこれでおしまいだ。
過去のブログ記事を読み返すと、どうやらちょうど一年前のぼくから現在のぼくまで、それほど進退はないらしい。向上心ばかりが高く、つまり意識高い系であるところのぼくにとっては当然の帰結かもしれないけれど。
そろそろ変わってもいい時機なのかもしれない。春がきてそう考えている。遅い。あまりに遅いけれど、春の陽気にあてられてそんなことを考えている。どうせ変わることなんて出来ないけれど、ぼくは死ぬまでぼくなんだけれど、それでもまあ今の自分を好いてやるのは癪なので、ちょっと頑張ることにする。見てるか、一年後のぼく。もし君が変われていないならばすこしは生きるのを恥じたらどうだ。というのは自分の首を締める(笑えない)だけなのでこのあたりでやめておく。
末筆であるが、ぼくよ、どうかご自愛を。

身の内に怪物を飼っているような気がする。
どうすれば飼い慣らせるのか、あるいは、どうすれば殺せるのか。今はただ、美しく生きる人間が羨ましい。こんなおぞましいものを腹の内に隠しているような人間から生まれでた音楽が、言葉が、物語が美しいわけはなく、だとすれば僕は生きていても仕方がないのではないか。
美しい貴女を汚すだけならば、(いかに貴女がそれをよしとしようとも、だ)僕はなんとしてもこの怪物を殺さなければならないと思うのだ。
宗教はだめだった。ならばもう自罰より他にないのではないだろうか。罰されているうちは、なんとか呼吸が許されている錯覚に陥ることができる。
もう何もわからない。
自分が間違っているということだけは、わかるけれど。