海の手記

報告と記録

あのひとのいなくなったあと、ぽっかりと開いた穴は随分歪な形をしていて、何を嵌めてみようとしたところで上手く嵌まってくれなかった。
私はその穴をできるだけやさしい手つきで撫でて、そこにあったものを思う。街はどこもあのひととの思い出に満ちていて、郊外に越してきていてよかったと思った。
新しいイタリアンの店をみつけて、あのひとと行きたいと思った。不思議なことに、てきとうな女性を引っ掛けようと思えばできないことはないだろうに、あのひととしか行きたいと思わなかった。そういうとき、私は穴を指でなぞる。こんなふうに変わってしまった私という実存の輪郭に触れてみる。その繰り返し。
頑張れないときもあのひとのことを思い出す。あのひとの生かした私に、意味を与えられるのはもう私しかいない。そう思うと不思議と頑張れて、今のところ感触は悪くない。何もあげられないなんて、嘘なんだよと、言ってあげられる機会がないのが残念だが。
あのひとのなかに私の言葉のいくつかが、きっと残っているだろうと思う。言葉は私ではないけれど、どうか私の代わりにあのひとを守ってほしいと切に祈る。今日を生きるのにも精一杯な私が、なんとか紡ぎだしたあのひとのためだけの言葉。本当はもっと伝えたいことがたくさんあったけど、今はもう叶わない。どうかあのひとが健やかに、そして自由に生きていかれますように。あの言葉たちが不要になるくらい、おだやかであれますように。