海の手記

報告と記録

質問箱やましゅまろというサービスが流行ったとき、人間の承認欲求がおもむろに取り出され、剥き身で突きつけられたような感覚になって、吐きそうだった。

人間はいつだって《誰か》を求めている。
詰まるところ私にとって人生とは、私を許すためのゲームにすぎない。なるほど《誰か》に興味を持たれる客体としての自己は、魅力的かもしれない。そうでありたいと私も思う。でも、それでも芥川は死んだのだ。「ぼんやりとした不安」のために、人は死ねる。

呪いにすがって毎日を過ごしていると、ふともう自分のなかにはすくなくとも生きていたいと思える理由などひとつもないことに気づく。死にたいなんてべつに思わないけれど、ただ漫然とこんなおもしろくもない映画を見続けるのは本望じゃない。

私が私を許せる日は来るのだろうか。そんな日は来なくて、このままゆるやかな地獄が死ぬまで続くのだろうか。執着すべきものを失って、私はどうなっていくのだろう。
何者かになりたくて、でもそれはどうせ生きるならというだけの話で、そもそも生きることに固執しなければ報われない努力もしないですむ。それでも生に拘るだけの何かが、一体今の私のどこにあろう。

生活が色を失っていく。ようやくすこしだけ変われたと思った私という人格が、以前の冷たさを取り戻していくのを感じる。ぜんぶがどうでもよくて、ぼんやりと滲んでいく。結局のところ、これが私なのだ。何かが変われたなんて健気な幻想にとらわれる程度には変化したのかもしれないが。

生きながら死を想うことにとらわれた人間は、おそらくはじめからそこにはいないのだと思う。だからどんな言葉を尽くしたところで、彼には、あるいは彼女には響かない。そこにあって、そこにないのだから仕方がない。

寝て、朝起きて、いのちをいただいて。そんな繰り返しを愛していたい。髪が伸びて、おなかはすく。そんな図々しい物性を、愛していたい。友人や恋人と笑いあうことを、愛していたい。

いたいのになあ。