海の手記

報告と記録

世界が不健康になっていく。

突如足元から生活が瓦解して、気がつけば荒廃した身体と精神が世に憚っていた。というより、わたしたちの生活など、元からそれほど強固なものに支えられてなどいなかったのだ。今なんでもなく、以前と変わらず過ごせているのは、そんな脆弱性に気づいていた人間か、わたしのように肉体的にも、思想的にも元々不健康な人間だけだろうと思う。

幸い人恋しくなるような性分ではないから、自分の自由権が著しく害されていることはストレスだが、それほど精神的な影響はない。本屋においそれと行けなくなったくらい(くらい?)で、休日の過ごし方が変わるわけでもない。どうせ本を読むか勉強しているかだ。

思想はこういうとき、犬の餌にもならないことを知って、すこし落ち込んだりもした。右も左も揃って自由権をみずから差し出して生存権の保障を求めている。尊厳なき生にどれほどの意味があろうかと、わたしなんかはそう思うわけだけど、みんながみんなわたしのように生に頓着が薄いわけではないだろうから、あまり義憤に駆られていても仕方のないことなんだと思う。

ところで、国家を一個の有機的な実体とするならば、その本質は目的論的に解釈できるなあというようなことを、ここのところ考えている。生物が「生きること」を第一原理に行動するように、国家の本質とはあくまで「自己保存と生命活動の維持」であり、三権はそれを実現する諸機能なのだ。とすれば、現在の構成員たるわたしたちが、いかなる場合においても過去、未来の国民に対し優先的に諸権利を主張できるかと言えば、そうとは限らない。政府の目的はあくまで国家の存続であって、それが現在のわたしたちの利益と一致するとは限らないのだ。とはいえ、そうは言っても現在のわたしたちにも不可侵の主張領域をこしらえようとしたのが憲法なわけだが、これが現在適切な運用状態にあるとはなかなか言いにくかったりする。これ、ディストピアSFに使えそう。暇ができたら練ってみようと思う。

まあそんな地獄のような世の中だけど、妙な団結があって、でもわたしはそのなかにいない。かといって、全員が人間どうせいつかはしぬんだ!みたいな達観を得た世界を望んでいるわけでもない。健康で、健全な世界がいつだって正しい。

事物との関係付けのなかでしか「わたし」であれないようなわたしを、わたしは望まない。世界にただひとりであっても、わたしは「わたし」なのだと、そう信じてずっと生きてきた。生きてこられるだけの能力と性質がわたしには備わっていて、そしてその結果がこの孤独と、ここにきてさらに孤独を深めようとする救いがたい慣性なのだ。そのうえ、この慣性をわたしは愛してしまっているから尚更救いがたい。ひとりがすきだ。社会なんてものは、画面一枚の向こうにあるくらいでちょうどいい。

さいきん友人がどんどん救われていっている。それも他者に救われていて、わたしにはありえない救いだと思った。どれだけ他者がわたしのかたちを変えようと、わたしを救えるのは結局のところわたししかいない。他者に救われる程度の苦しみなんてどれほどのものだろうと、性格のわるいことを考えないでもないけど、それでも親しい人間が救いを得ることは祝福すべきだと思う。
他者で埋まる穴は、他者によって開けられた穴だ。わたしは自分で穴を掘り続けている。もうよじのぼることは叶わず、あとは生き埋めになるか、あるいは穴の先に何かあるのかのどちらかだ。

ひとりぼっちはさみしい。
さみしいと思えないことは、もっとさみしい。