海の手記

報告と記録

 人間関係について書こうと思う。
 言葉をまた、紡いでみようと思う。
 あの人がこれを読むのかはわからないが、今の私にはこれしか許されていないから。

 私には人間がわからない。
 世の中の人間はいつだって、誰にどう見られているかを考えている。私にはそれが自分とはぜんぜん違う原理や機序で動いているように見えて、すこしこわい。こわいから、見下して平静を保っている。
 人間は人間なのに、人間のロールプレイをしている。男は男らしく、女は女らしく、人間は人間らしく。もっとみんな自由なはずなのに、私には窮屈に見えて仕方がない役割を、みんな懸命に演じている。

 それでも多くの人はしあわせになる。人間らしく振る舞って、人間としての幸福を手にする。それはきっと素敵なことなんだと思う。
 あの人がもし、人間ごっこをしてしあわせになれる種の人間だったなら、私はたぶん関わりを持っていなかっただろうと思う。あの人はどうしてか私(たち?)と隔たりを感じているらしいけれど、私からすれば十分社会機序に噛み合わず、磨耗した歯車に見えた。

 私は誰にどう見られていてもかまわないし、必要がなければ誰とも話したいとも思わない。人恋しさみたいなものとは無縁だと思う。そして私はそんな私がとても嫌いだ。私は私が正しいと思っているが、正しくあり続けることが誰を傷つけるかを知っている。
 あの人は私のこれを強さだと言う。でもこれは私の弱さだ。正しさを振りかざして、傷つく前に傷つけるようなやり方を、強さとは呼ばないと私は思っている。
 だから私はあの人に、雑音に心を乱すなと言う傍らで、人間を諦めないでほしいと思っていたのだろうと、最近では思う。正しさと人間らしさとの間で揺れるあの人のあり方に、自分では到達できなかった希望を見ていたのだと思う。それは憧れと言ってもよかった。思えばそういった類いの感情を、私はいつだってあの人に向けていた。薬を下品だと言い切る強さ、人との繋がりを求める自分と向き合える真摯すぎる生への態度。いつだって彼女は私の先を行っていた。私と同類であるくせに、人間をどうしようもなく愛していた彼女は、今もその身を磨耗させながら、回転している。

 あの人がおだやかで、健やかに生きていかれるように。それが私の願いだ。私はもう誰かと手を取り合うことはないだろうし、誰かのために生きたいと思うことも、たぶんない。誰かのために死んでもいいやと思うことはあるだろうけど、それは私にとってそう難しいことではない。

 醜く粘度を伴った感情が、ずっとこびりついたままで、もうすぐ春になる。鴨川には桜が咲いて、散歩日和になる。私は花粉症だから、何度もくしゃみをするだろう。ジュンク堂はなくなったが、ドーナツの味は変わりなく、もしかしたらあのイタリアンでは季節のパスタが出ているかもしれない。見上げれば鮮やかな青空を、電線が分割している。こんなに良い天気なのに、どうせ本屋に行く。当たり前のように別行動をとって、目当ての本で荷物を重くする。
 こんなことを考えるのは、きっと私だけだろう。あれだけ傷つけておきながら、無遠慮にこんなことを書き散らかしている。こんな気持ち悪い願望なんて、消えていてくれたらいいのに。