海の手記

報告と記録

春が来た。

窓を開けていると、暖かな風が吹き込んで、カーテンを揺らす。淡い日差しがこぼれて、すこしだけ微睡む。そんな昼下がり。
あるいは、すっかり日が長くなって、街をオレンジと紫が包み込む夕方。

そういうものにどうしようもなく切なくなってしまうようになったのは、いつからだろうか。
そしてそういうものを想うとき、思い出される記憶や風景は、いつだって誰かとみたものではなくて、わたしひとりのものだった。

友人は多くも少なくもないほうだった。中心にいるタイプではないが、必ず誰かはわたしのことを気にかけてくれていた。
でもこういうとき、誰の顔も思い浮かべることができない。結局わたしはひとりで生きてきたつもりなのだろう。だから誰の思い出も出てきてくれない。

友達のことがすきだし、家族のことを愛している。でも、わたしはわたしで完結すべきだ。わたしという領域を、むやみに拡大することがもたらすさまざまな不合理や煩わしさを、わたしは知っている。

さいきんは日中勉強して、夜は本を読むかゲームをするかしている。それはじつに有意義な生活で、これがずっと続けばいいのにと、不謹慎にも思ってしまう。同時に、この生活が可能な時期がわたしにもあったことを思わずにはいられない。大学四年間、わたしは一体何をしていたのだろうか。モラトリアムを有意義に活用するには、当時のわたしはあまりにも未成熟だったのだと、行き場のない後悔や未練がちくりと胸を刺す。

もうすぐ夏が来る。京都の夏は暑い。眩しいくらいの青空を鬱陶しく感じながら、御所の緑を横目に講義室に向かう日々が、どうしても感傷的にわたしに迫ってくる。これから、こんなものとずっと付き合っていかなければならないのだろうか。だとすればそれは、とても切なく、甘やかな地獄だと思った。

世界が不健康になっていく。

突如足元から生活が瓦解して、気がつけば荒廃した身体と精神が世に憚っていた。というより、わたしたちの生活など、元からそれほど強固なものに支えられてなどいなかったのだ。今なんでもなく、以前と変わらず過ごせているのは、そんな脆弱性に気づいていた人間か、わたしのように肉体的にも、思想的にも元々不健康な人間だけだろうと思う。

幸い人恋しくなるような性分ではないから、自分の自由権が著しく害されていることはストレスだが、それほど精神的な影響はない。本屋においそれと行けなくなったくらい(くらい?)で、休日の過ごし方が変わるわけでもない。どうせ本を読むか勉強しているかだ。

思想はこういうとき、犬の餌にもならないことを知って、すこし落ち込んだりもした。右も左も揃って自由権をみずから差し出して生存権の保障を求めている。尊厳なき生にどれほどの意味があろうかと、わたしなんかはそう思うわけだけど、みんながみんなわたしのように生に頓着が薄いわけではないだろうから、あまり義憤に駆られていても仕方のないことなんだと思う。

ところで、国家を一個の有機的な実体とするならば、その本質は目的論的に解釈できるなあというようなことを、ここのところ考えている。生物が「生きること」を第一原理に行動するように、国家の本質とはあくまで「自己保存と生命活動の維持」であり、三権はそれを実現する諸機能なのだ。とすれば、現在の構成員たるわたしたちが、いかなる場合においても過去、未来の国民に対し優先的に諸権利を主張できるかと言えば、そうとは限らない。政府の目的はあくまで国家の存続であって、それが現在のわたしたちの利益と一致するとは限らないのだ。とはいえ、そうは言っても現在のわたしたちにも不可侵の主張領域をこしらえようとしたのが憲法なわけだが、これが現在適切な運用状態にあるとはなかなか言いにくかったりする。これ、ディストピアSFに使えそう。暇ができたら練ってみようと思う。

まあそんな地獄のような世の中だけど、妙な団結があって、でもわたしはそのなかにいない。かといって、全員が人間どうせいつかはしぬんだ!みたいな達観を得た世界を望んでいるわけでもない。健康で、健全な世界がいつだって正しい。

事物との関係付けのなかでしか「わたし」であれないようなわたしを、わたしは望まない。世界にただひとりであっても、わたしは「わたし」なのだと、そう信じてずっと生きてきた。生きてこられるだけの能力と性質がわたしには備わっていて、そしてその結果がこの孤独と、ここにきてさらに孤独を深めようとする救いがたい慣性なのだ。そのうえ、この慣性をわたしは愛してしまっているから尚更救いがたい。ひとりがすきだ。社会なんてものは、画面一枚の向こうにあるくらいでちょうどいい。

さいきん友人がどんどん救われていっている。それも他者に救われていて、わたしにはありえない救いだと思った。どれだけ他者がわたしのかたちを変えようと、わたしを救えるのは結局のところわたししかいない。他者に救われる程度の苦しみなんてどれほどのものだろうと、性格のわるいことを考えないでもないけど、それでも親しい人間が救いを得ることは祝福すべきだと思う。
他者で埋まる穴は、他者によって開けられた穴だ。わたしは自分で穴を掘り続けている。もうよじのぼることは叶わず、あとは生き埋めになるか、あるいは穴の先に何かあるのかのどちらかだ。

ひとりぼっちはさみしい。
さみしいと思えないことは、もっとさみしい。

質問箱やましゅまろというサービスが流行ったとき、人間の承認欲求がおもむろに取り出され、剥き身で突きつけられたような感覚になって、吐きそうだった。

人間はいつだって《誰か》を求めている。
詰まるところ私にとって人生とは、私を許すためのゲームにすぎない。なるほど《誰か》に興味を持たれる客体としての自己は、魅力的かもしれない。そうでありたいと私も思う。でも、それでも芥川は死んだのだ。「ぼんやりとした不安」のために、人は死ねる。

呪いにすがって毎日を過ごしていると、ふともう自分のなかにはすくなくとも生きていたいと思える理由などひとつもないことに気づく。死にたいなんてべつに思わないけれど、ただ漫然とこんなおもしろくもない映画を見続けるのは本望じゃない。

私が私を許せる日は来るのだろうか。そんな日は来なくて、このままゆるやかな地獄が死ぬまで続くのだろうか。執着すべきものを失って、私はどうなっていくのだろう。
何者かになりたくて、でもそれはどうせ生きるならというだけの話で、そもそも生きることに固執しなければ報われない努力もしないですむ。それでも生に拘るだけの何かが、一体今の私のどこにあろう。

生活が色を失っていく。ようやくすこしだけ変われたと思った私という人格が、以前の冷たさを取り戻していくのを感じる。ぜんぶがどうでもよくて、ぼんやりと滲んでいく。結局のところ、これが私なのだ。何かが変われたなんて健気な幻想にとらわれる程度には変化したのかもしれないが。

生きながら死を想うことにとらわれた人間は、おそらくはじめからそこにはいないのだと思う。だからどんな言葉を尽くしたところで、彼には、あるいは彼女には響かない。そこにあって、そこにないのだから仕方がない。

寝て、朝起きて、いのちをいただいて。そんな繰り返しを愛していたい。髪が伸びて、おなかはすく。そんな図々しい物性を、愛していたい。友人や恋人と笑いあうことを、愛していたい。

いたいのになあ。

 人間関係について書こうと思う。
 言葉をまた、紡いでみようと思う。
 あの人がこれを読むのかはわからないが、今の私にはこれしか許されていないから。

 私には人間がわからない。
 世の中の人間はいつだって、誰にどう見られているかを考えている。私にはそれが自分とはぜんぜん違う原理や機序で動いているように見えて、すこしこわい。こわいから、見下して平静を保っている。
 人間は人間なのに、人間のロールプレイをしている。男は男らしく、女は女らしく、人間は人間らしく。もっとみんな自由なはずなのに、私には窮屈に見えて仕方がない役割を、みんな懸命に演じている。

 それでも多くの人はしあわせになる。人間らしく振る舞って、人間としての幸福を手にする。それはきっと素敵なことなんだと思う。
 あの人がもし、人間ごっこをしてしあわせになれる種の人間だったなら、私はたぶん関わりを持っていなかっただろうと思う。あの人はどうしてか私(たち?)と隔たりを感じているらしいけれど、私からすれば十分社会機序に噛み合わず、磨耗した歯車に見えた。

 私は誰にどう見られていてもかまわないし、必要がなければ誰とも話したいとも思わない。人恋しさみたいなものとは無縁だと思う。そして私はそんな私がとても嫌いだ。私は私が正しいと思っているが、正しくあり続けることが誰を傷つけるかを知っている。
 あの人は私のこれを強さだと言う。でもこれは私の弱さだ。正しさを振りかざして、傷つく前に傷つけるようなやり方を、強さとは呼ばないと私は思っている。
 だから私はあの人に、雑音に心を乱すなと言う傍らで、人間を諦めないでほしいと思っていたのだろうと、最近では思う。正しさと人間らしさとの間で揺れるあの人のあり方に、自分では到達できなかった希望を見ていたのだと思う。それは憧れと言ってもよかった。思えばそういった類いの感情を、私はいつだってあの人に向けていた。薬を下品だと言い切る強さ、人との繋がりを求める自分と向き合える真摯すぎる生への態度。いつだって彼女は私の先を行っていた。私と同類であるくせに、人間をどうしようもなく愛していた彼女は、今もその身を磨耗させながら、回転している。

 あの人がおだやかで、健やかに生きていかれるように。それが私の願いだ。私はもう誰かと手を取り合うことはないだろうし、誰かのために生きたいと思うことも、たぶんない。誰かのために死んでもいいやと思うことはあるだろうけど、それは私にとってそう難しいことではない。

 醜く粘度を伴った感情が、ずっとこびりついたままで、もうすぐ春になる。鴨川には桜が咲いて、散歩日和になる。私は花粉症だから、何度もくしゃみをするだろう。ジュンク堂はなくなったが、ドーナツの味は変わりなく、もしかしたらあのイタリアンでは季節のパスタが出ているかもしれない。見上げれば鮮やかな青空を、電線が分割している。こんなに良い天気なのに、どうせ本屋に行く。当たり前のように別行動をとって、目当ての本で荷物を重くする。
 こんなことを考えるのは、きっと私だけだろう。あれだけ傷つけておきながら、無遠慮にこんなことを書き散らかしている。こんな気持ち悪い願望なんて、消えていてくれたらいいのに。

それは、きらきらと輝くゼリーポンチ。
それは、別れ際の京都駅ゼロ番ホーム。
それは、丸善の海外文学コーナー。
それは、略奪した布団で猫のように丸まる人。
それは、哲学の道で汗ばんだ手のひら。
それは、昔ながらのドーナツと煙草のにおい。
それは、今も本棚にあるとある女性作家の文庫本。
それは、ハンドルを握るきれいな手。
それは、耳朶に光る愛しい銀色。
それは、日本一きれいと言われる大手コーヒーチェーン店。
それは、完成前の美術館にいた白熊。
それは、大好きな人の、大好きな友人。
それは、人生で最も緊張した夜ご飯。
それは、水槽で揺蕩うクラゲ。
それは、それは、それは。

あのひとのいなくなったあと、ぽっかりと開いた穴は随分歪な形をしていて、何を嵌めてみようとしたところで上手く嵌まってくれなかった。
私はその穴をできるだけやさしい手つきで撫でて、そこにあったものを思う。街はどこもあのひととの思い出に満ちていて、郊外に越してきていてよかったと思った。
新しいイタリアンの店をみつけて、あのひとと行きたいと思った。不思議なことに、てきとうな女性を引っ掛けようと思えばできないことはないだろうに、あのひととしか行きたいと思わなかった。そういうとき、私は穴を指でなぞる。こんなふうに変わってしまった私という実存の輪郭に触れてみる。その繰り返し。
頑張れないときもあのひとのことを思い出す。あのひとの生かした私に、意味を与えられるのはもう私しかいない。そう思うと不思議と頑張れて、今のところ感触は悪くない。何もあげられないなんて、嘘なんだよと、言ってあげられる機会がないのが残念だが。
あのひとのなかに私の言葉のいくつかが、きっと残っているだろうと思う。言葉は私ではないけれど、どうか私の代わりにあのひとを守ってほしいと切に祈る。今日を生きるのにも精一杯な私が、なんとか紡ぎだしたあのひとのためだけの言葉。本当はもっと伝えたいことがたくさんあったけど、今はもう叶わない。どうかあのひとが健やかに、そして自由に生きていかれますように。あの言葉たちが不要になるくらい、おだやかであれますように。

たくさん泣いてしまった。
これが前向きな選択だと信じている。
信じているけれど、やはりこれはひとつの終わりであることは間違いがなくて。

煙草を吸った。あの人が吸わないと言っていたことを思い出す。今ではお笑い草だ。煙草だけに。
勉強を頑張ろうと思った。最近はどうもやる気が出ていなかったから、このタイミングで取り戻せたことは疑いもなく良いことだ。
ほら、終わりのときですら、ぼくはあの人からもらってばかりだ。

薄れていく。必ず。
それでも繋いでいく。
憑き物がとれたような身軽さを感じて、ようやくぼくも傷だらけだったことに気づく。

あの人に教わった本や、音楽。つながれた人たち。
ぼくはそれに報いるだけだ。
証明するだけだ。
あの人のくれた時間が正しかったこと。
意味が確かにあったことを。

その先に、どうなるかはその時にしかわからない。